場の専一と非編成について

さて、お香の件。もちろんお香を手渡した人間が誰であろうと、そのことが問題なのではなく、お香とともに態度を違える人間に対して高見から「落ち着いて」などと言い放つ態度を問うのである。公共空間はどうやらこの日本の社会にあっては「誰のものでもない=誰も勝手なことをしてはならない」という私有制を裏返した論理によってその存立が支えられているようであるが、その禁足の内容を指示するしるしとして粗暴さ・がさつさあたりがもっとも頻繁に参照される。ようするに「迷惑をかけるな」という恫喝のために、「〈暴れる〉こと・場を乱すことが問題」との認識への合意が動員されるのだ。では、〈大人(おとな)〉しくすること──これはそうではない他者を〈子供〉視することに通じる、そう、まさに日帝が台湾原住民を「可愛い子供」として宣撫教化しようとした態度と同根だ──が他者に迷惑をかけないための唯一の態度なのか。そうではあるまい。「迷惑をかけない」とかいうことを「正義」としてふりかざして場の平穏さを保持することを他者に要求することもまた「迷惑」でありうるからだ。場の排他的占有こそが問題なのだ。そもそも「迷惑」と感じるなかみは人によってバラバラである。そのことを踏まえずに「誰のものでもない」はずの場を占有したつもりで他者に対してあれこれと指令する態度は滑稽だ。いや、むしろ有害でさえある。行為の多様性による混沌と、混沌からはじまる議論の可能性をそこなうからである。わたしはこうした行為の唯一前衛性を拒否する。行動の場でお香をたく人もいれば、ろうそくをもって悲劇を悼む人もいれば、ドンツクドンツク唱名を唱える人もいれば、不当な規制をかける警察に文句をたれ衝突する人もいれば、とにかくシュプレッヒコールをくりかえす人もいれば、ただ黙ってプラカードをかかげて佇立する人もいる。それでいいではないか。ただただそこにあらゆる人々がいる、ということが重要なのだ。だからこそ、われわれおっかなびっくりのおっちょこちょい(軽挙妄動する輩)は、かつて寺島珠雄がうたったごとくに英雄を拒否する。

 前衛でなく同盟軍でなく
 無論主力ではなく
 うしろに控えもせず

 過程に奮迅して斃れつつ
 新たな過程を現出せしめる
 非編成軍団

 擦過する
 血をもてる影
 の ごとき

「われら」(詩集『情況と感傷』所収)

だからこそ、お香を受け取っておきながら地面に叩きつけた仲間のやや乱暴な応答に、わたしは異議をさしはさまなかった。専一への対抗は英雄のものではない。唯一の正義に向かって呪詛を放つ編成されざるおっちょこちょいどもはけっして英雄たらんとして自己を組織しようとするのではない。むしろ独善的な英雄を自他のうちにみとめてこれと格闘するために、強制されようとする表面的な静謐に異をとなえ、かき乱そうとするのだ。だから寺島にならってここで「非編成」と自己組織化のありようを見定めるとき、それは場の排他的占有を回避させようとする「バラバラのままの一時的結集」をめざすものとして具体化される。つまり、われわれ軽挙妄動する輩にとってただ街頭で治安弾圧機関と衝突することが目的なのではない。組織化の方法を実践的に問い続けながら立ち、倒れ、そしてまた立ち、倒れることこそが、自己の鍛錬と一時的な集団編成の訓練に有用な過程として、手段でありながら同時に目的として捉えられるのである。そしてむしろ英雄は、他者やテンデンバラバラさを排除しながら空間の専一を生み出そうとする統一運動の表徴として現れる。しかも全方位自己販促活動のために(そんなに人に好かれたいか!)英雄が要請され輩出されるのだ。運動による運動のためと称する運動の搾取。そんなものは、クソ、クラエ。