「サウンドデモ」史考──人はどんちゃん騒ぎのなかに社会変革の夢を見るか

初出『アナキズム』第12号(2009年8月)

はじめに

 「サウンドデモ」と呼ばれる示威行進がある。イラク反戦運動のさなかに登場した「新しいスタイル」のデモのことだ。
 そもそも示威行進には音声がつきものではあるが、特定のデモをしてことさらに「サウンド」と形容する所以は、それらのデモが比較的大がかりなサウンドシステム(音響機材)を随行させることにある。従来の宣伝車両のかわりに一・五トンから四トンあたりのトラックを利用し、荷台にサウンドシステムを組み上げる。そしてその荷台の上でDJやバンドが大音量で演奏し、その直後に熱狂的な踊り歩く人々がつづくわけだ。もちろん大がかりなものばかりではなく、(自家改造製の)リヤカーや台車などを利用した小規模なサウンドシステムを人力で転がす形態もある。いずれにせよ、爆音を鳴らしながら練り歩くことからサウンドデモの呼称が定着したわけだが、一部では「ストリートレイヴ」「ストリートパーティ」とも呼びならわしていた。「レイヴ(rave)」には「どんちゃん騒ぎ」、転じて「パーティ」という意味があり、野外の音楽パーティをさしてこの言葉が使われるため、サウンドデモの別の言表としてそのまま転用されたのである。
 サウンドデモをテーマとする言説も往時よりそれなりに公表されたが(1)、そのほとんどが「新しいデモ」として積極的に称揚することで共通していた。さらにいえば、それら識者の語りではときに祝祭的な叛乱としての意味が付与され、同時に輸入加工品のごとき紹介のされ方も見られた。そうした見方が限られたものにすぎないとしても、新奇さを外部に求めようとする把握のしかたには、無前提に海外の運動を進んだものとみなすある種の事大主義が影響を及ぼしていたのではないかとさえ思われる。旧来の運動を古くさいもの、世人にとって敷居の高いものとして描き出す一方で、サウンドデモなりの「新しさ」を強調する。こうした態度は、潮流としてはまったく相容れなかった「ピースウォーク」の運動でも同様で、それらもまた自らを「新しい運動」として旧来の運動に対置する自負を見せていた。かかる新旧の強調は、社会運動に動員すべき「大衆」を措定し、その「大衆」をどのように獲得するかという、人を客体としてのみ幻視する唾棄すべき態度においてこそ貫徹されるだろう。そこには、市場動向を見定めるふりをしながら顧客獲得の道筋をさししめすマーケター同様の人間把握の性向さえ見えかくれしている。「新しい」とはとどのつまりセールスプロモーションの言葉でしかない。デモ、売らんかな。しかし都合のよい顧客はどこにもいない。
 イラク反戦運動のさなかに突如として現れたサウンドデモが、欧米の「Reclaim the Streets!(街路を取りもどせ!)」(2)の運動を参照していたことをふまえれば、海外の祝祭的な街頭運動にそれら日本のデモをなぞえらることはあながち的外れではない。しかしデモそのものが把持してきた潜勢力からすれば、それは単に輸入品・新品としてのみ描き出せばことたりるようなものではなく、むしろ古くから街頭で練り歩いてきた人々の営為を継承する闘争としても位置づけなおされねばならない性質を持っている。後述するが、歌舞音曲による社会的・政治的な練り歩きはいまにはじまったものではないからである。〈発現─模倣─伝播─共有〉が大衆運動の形態素であるなら、「新しい」は同時に「古い」でなければならない。人は意識しなくても、あれこれのデモなり集会なりの様式を改めつつ継承してきたのである(批判的に摂取する=廃棄することも含む)。もちろん人の好き嫌いはさまざまだろう。それぞれが好きなように模倣し改変することで、運動の「スタイル」はつねに生かされもし、殺されもしてきた。どんな運動・その方法にせよ、改廃はつねにありうることだ。社会運動をおさえこもうとする治安当局の動向という外的要因もある。運動主体の流入・離脱という内的要因もある。運動はつねに流動せざるをえない。したがって「新しさ」だけを肯定的指標として社会運動を把握しようとすれば、当然にも(自らの)限界を見逃すことになる。むしろ新旧そのことだけでは評価の媒介項にはなりえないものとみとめ、対比による異同とその捉えかたがどうであるかを問わなければならない。「新しいからよい」のではない。また同時に「古いからよい」のでもない。「やってよかった」だけではすまない。よい・わるいの価値判断は、その運動がなにをめざし、どう自己組織化してきたのかと問うことのなかでのみ意味を持つ。新しかろうが古かろうが、人のなすことにはつねに限界がつきまとう。したがってまた、限界をどのように見きわめ把握するかということが運動の〈持続可能性〉、あるいは〈生─死─再生〉の連環する動態の稼動性の根本的要素として検討されねばならない。新参者の「勇気づけ(encourage)」に自己称揚が必要だとするなら、最低限、その裏腹の自省を追及すべきなのである。まるで当然のことでしかないが、そうしてはじめて「新しい運動」は反復するものとして定着する可能性をもつ。
 ところで、騒々しく音を鳴らしながら練り歩くといえば、伝統的な祭礼行事を思い浮かべる人も多いだろう。実際のところ、サウンドデモは「街頭を移動するレイヴ」としてお祭り騒ぎの様相を呈することがままある。デモ参加者の士気にもよるが、音楽に呼応して熱狂的に踊りながら歩くデモ参加者の態様は、社会的・政治的主張をともなう行動としては時に「不真面目だ」「お遊びだ」といわれながらも、行為者自身を集合的エネルギーの放出主体=集団示威主体へと定位させる可能性をもつものとして意識されてきた。とりわけ二〇〇三年に東京・大阪・京都で突如せりあがった(かのように見えた)反戦サウンドデモの波濤は高く、警察の妨害をものともせずに車道と歩道を融解させるほどの熱狂的なエネルギーを出現させていった。
 敵対者と真っ正面から衝突するような実力行動に近い行動がほとんど絶え、またそうした動態を可能にする集団的な訓練を実施できる場と関係性が社会からきえさりつつあるいま、サウンドデモを訓練ぬきに瞬間的な集合の力をひきだすことができる闘争の装置として評価することはたやすい。音を武器として多数の野次馬をその場で生起させうる力を肯定的に意義づける向きもあるかもしれない。〇三年当時から実践に携わってきた立場からすれば、いまさら新しいものとしてサウンドデモを称揚する気はないが、それが近年の弛緩したデモにはないテンションによって街ゆく人々の好奇の耳目を集めたのはたしかなことだといえる。デモの士気に左右されることではあるものの、その場で大勢の合流者・野次馬を生み出した潜勢力は、「路上解放」というそもそもの〈目的かつ手段〉が手段としてのみコピーされる趨勢さえ生み出してきた。
 しかしやはり即時的問題もまた存在しつづける。大音量のもつ「暴力」性をめぐる評価の空転、機器の制約で音の共有が一部に限られる限界、音のつくりだし方に制約される「踊る/踊らされる」主体の二面性、あるいは「踊れない」といった主体の乖離の問題などである。東京ローカルではさらに治安当局による執拗な弾圧という問題もくわわってくる。そしてなにより根本的な難事として、デモがうち出すサウンドとプロパガンダの間にいったいなんの関連性があるのかという、手段と目的の混濁の事態が待ちかまえる。単に「楽しい」「だから敷居をさげる」といったマーケティング的発想だけでサウンドデモを称揚するなら、それは社会的自殺にいきつく。あるいは「新しい運動」の手段として拡散しさえすればよいのだと見るだけなら、無自覚な選良による慣性運動へと容易に陥没していくだろう。様式は簡単に陳腐化する。すなわち陳腐への安逸は限界を居直ることでしかない。だからこそ、たとえそれが予定調和であったとしても、執念深く反復する行動のなかで、行為の共同性や集団性をうみだす実験場として、また当然にも他者の困惑と怒りを誘発する磁場の拡延として追究・実践することが肝要なのだというほかない。その意味で、〇三年東京のサウンドデモの主体に関する二木信の指摘は示唆的だ。

「政治的立場や思想やジャンルや世代やセンスも異なる人々を駆り立てていたのは、「何が起こるか分からない」という予測不能な経験への期待、妄想、そして夢想だった。言ってしまえば、そこで夢見られていたのは、新しいデモや新しいパーティではなく、もっと根本的に路上の秩序、そして自らの身体感覚を揺さぶる意味での「暴動」だった。だからデモでもレイヴでもストリートパーティでもあり、そのどれでもないという新しい空間を切り拓くことが可能だったのだ。」(3)

 もちろん、それぞれの「暴動」が実際どうだったかについて一様に評価することはできない。主催者として必要な役割に散るべき人間とデモの参加者は場を共有しながらどうしても分化していかざるをえないし、また参加のスタンスによっても「秩序」との取っ組み合い方に差異が生じるからだ。社会変革を追求しようとする主体性がそこに胚胎していたかどうかの設問もあやしげだ。しかし初期のサウンドデモが提起しえた行動の総和がもつ意味を、「どれでもない」──つまり各自の置かれた状況を横断しようとする複合性をもつものと位置づけることは可能だろう。とはいえそれも即時的な評価以上のものではない。繰り返すが、どんなに未知の行為でもいったん具象すれば陳腐化していくのが必定だからである。
 前置きが長くなったが、本論ではこの数年来のサウンドデモの経過を瞥見することで、その意義・限界と現在的な位置を大づかみに把握することをめざす。そのため、これまでに十分に言及されてこなかった問題にもあえて立ち入って再検討することとしたい。

独自潮流としての勃興

 反戦のサウンドデモが登場したのは二〇〇三年のことである。最初に東京で敢行され、ほどなくして関西でも並行した。翌年には名古屋にも飛び火している。これら草創期のサウンドデモは反戦運動のなかで独自の地歩を占めていくことになるが、これに先行する動きもまた存在した。はじめにそのことについてふれよう。
 日常的には孤立せざるをえない個の連帯を誇示するという意味で反戦サウンドデモとの共通性をもつ、性的マイノリティのパレード・マーチ(4)の歴史をまず確認しておく。それらパレードやマーチがサウンドシステムを採用するようになった正確な時期については寡聞にして知らないが、いまにいたる東京のプライドパレード、レインボーマーチin札幌、関西レインボーパレードなどでは、現代的な山車である「フロート」と呼ばれるオープンカーやトラックがつきものだ。フロートは車両に派手な飾り付けをしてパフォーマが乗り込むヴィジビリティ(視覚的訴求)重視のしかけで、まさに舞台装置である。規模が大がかりとなれば参加グループがそれぞれ車両を準備するなど、自己を誇示する行為主体・装置は複数となる。このフロートが日本で最初に登場したのは一九九九年に開催された「第4回レインボーマーチin札幌」とされ、すでにこのときからDJフロートだったという(5)。いずれにせよそれらの行進は音楽を大音量で流す点でサウンドデモに通底する。しかし行政・警察当局との軋轢は回避するのがこれらのパレードに共通するスタンスと見え、そうした姿勢は反戦サウンドデモとはほど遠い位置にある。むしろそれは都市型の祭りのありように近く、形態面でいえば「浅草サンバカーニバル」がもっとも近いと思われる。治安当局との対峙を避けていく示威行進のあり方としては、〇一年一二月に東京で五台ものサウンドカーを出した「ピースパレード(ピースウォーク・ステップ・7+和プロジェクト)」(6)が近接する。
 明確に「反戦」を訴求したサウンドデモは〇三年を嚆矢とするが、「反戦平和」という類似領域ではこの〇一年末のピースパレードが先行していた。当該パレードは九・一一以後に精力的に「ピースウォーク」という名称で示威行進を行っていた「CHANCE!東京」と、音楽畑の人間が結集した「和プロジェクト」による合作であったが、「ピース」を前面に掲げ、あくまで他者との軋轢を回避し、またそのことで「誰でも参加できる」と売り物にしていこうとする点で、〇三年以後のサウンドデモとは異なる行き方を明らかにしていた。事実、このピースパレードの謝辞の対象には「警察さん」が含まれており、のちに東京の「反戦平和」共同行動枠である「ワールドピースナウ(WPN)」と分岐するかたちで、警察と対峙する隊列を形成していったサウンドデモとは相容れない姿勢を予示していたのである。そしてこのピースパレードは一回限りで立ち消えになった。なお、CHANCE!東京などが提起したピースな運動の全国的影響のもと、「CHANCE!福岡」(7)が〇一年から〇二年にかけて福岡で活発にピースウォークを行っている。そして〇二年六月一五日・九月一四日の二つのウォークでは、前段として公園で「レイヴ(DJダンスパーティー)」も開催した。その取り組みの内容は前記ピースパレードに近く、九月のウォークでは「平和の道は「反戦」じゃない?!」と押し出している。その惹句もまた示唆的で、「いくら拳を振り上げて「戦争反対」って大声で叫んでみても、平和にはなりませんよね?」とあり、CHANCE!福岡が呼びかけていたピースウォークの「「反対・対立」を超えて「対話・共存・相互理解・思いやり」といったピースフルな気持ちで歩きましょう」との趣旨を改めて訴えかける内容が続いた。ピースウォーク──たしかにそれは反戦デモではないなにかを提起していた。しかしピースウォークも一つではない。〇八年七月五日の「チャンレンジ・ザ・G8 1万人のピースウォーク」ではだいぶ様子が違っていた。ウォーク中、海外からのアウトノーメ/アナキストを含む直接行動派、つまり「拳を振り上げ」る者たちが結集する格好となったサウンドデモ部分に弾圧がくわえられたとき、主催者は統一を保って警察に抗議し、また主催関係者が救対の記者会見で「フランスデモとなってよかった」といい切っている。
 「反対」に反対する流れに反対し、〇三年に新たに登場したサウンドデモは「反戦平和」運動のなかで独自の潮流を形成した。東京でも関西でも名古屋でも、それは寄る辺なき非政治党派・非ピース派の人々が流動しながらつくりあげたものである。そのごちゃまぜの主体のありようをさして関西では「有象無象」とも呼んでいたが、東京でもまさにそのとおりであった。〇一年の九・一一事件とその後の報復戦争の事態を受け、日本でも反戦運動が──とりわけイラク反戦が──ひさびさに大規模なものとなる形勢が全国的なものとなったが、前記したCHANCE!のようにピースを呼号するものが多数派であったように思われる。とくに東京で特徴的だったのは、多様な個人・運動体が合流するプラットフォームが大きくなればなるほど、その共約に「非暴力」を指向し、同時にその共約が警察との軋轢を避ける黙契的な傾向に転化していったことである。そのため怒りをもってデモに参加する人々の「警察の言うことを聞かない」態度が忌避されがちとなる雰囲気が、WPNなどの共同行動で顕著となった。もちろん共同行動におけるそうした趨勢は、数十年にもわたって警察の街頭支配を許してきたすべての人間の主体的力量にかかわる問題ではある。換言すれば、共同行動のためのプラットフォームが大型化すればするだけ不可逆的に動きが鈍くなっていく問題は、社会運動にかかわろうとする全員の前に立ちはだかる障壁である。しかし自力自闘すら「迷惑」とされる一部のありようからすれば、当然そこからはみ出さざるをえない有象無象が現れるのも一つの現実であった。そしてそのはみ出さざるをえなかった有象無象=多様者こそが反戦のサウンドデモをつくりあげていく。つまり初期のサウンドデモは、イラク反戦運動のなかでなかば状況におしやられるようにして形成されていったのである。
 ノンセクト/アナキストの活動者もまたその流動する主体の複数性のうちに含まれていた。ノンセクトと一口にいっても様々な潮流があるが、総じて〇一年以後のアフガン反戦・有事法制反対のうねりのなかで各々独自の行動にも取り組んでいたのであって、共同行動にただのりするだけの存在だったのではない(ただしこの当時、「新しいアナーキスト」なるものは影も形もない)。しかし主催者─参加者という立場の違いのもとにあって、街頭の運動に圧力をかけてくる警察に対し、主催者側が最大公約数的な制約にしばられつつ反警察・反弾圧の態度をとりにくくなるという状況に遭遇すれば、参加者たる「反」一本槍のノンセクト活動者とその同調者は鬼子とならざるをえない。さらに東京ではあえてノンセクトなどと自称しない人々のなかにもそうした向きが存在し、音楽関係者、演劇人、美術家の一部などもまたその立場を表徴していた。ピース一色にぬりこめられようとしていたパレードに参加しながらも、多様性を共約するものとして提示される非暴力と非寛容のセットにわだかまりをもつバラバラな人々は、戦争への怒りを燃やしながらやがて自律的に実践しようと動きはじめる。その一つの結果が「ASC(Against Street Control)」のサウンドデモであった。
イラク反戦運動では弾圧がつづいた。イラク爆撃開始当日の〇三年三月二〇日、アメリカ大使館前の抗議行動で四名が公務執行妨害で逮捕されたのが前ぶれとなり、そして東京最大の「反戦平和」の共同行動となったWPNのピースパレードに対しても弾圧がしかけられたことは周知のとおりである。すなわち四月五日のパレードで参加者二名が逮捕され、一九日のパレードでも一名が逮捕された。いずれも警察にしたがおうとはしない態度に公務執行妨害をでっち上げられたもので、結局全員が不起訴とされた。これらの弾圧は主催者には公式に認知されなかったが、有志(反戦青年救援会)が救対にあたることで終熄した。
 それはともかくとして、年明けから「警察嫌い」が奇異の目で見られる雰囲気を察知していたバラバラな人々のなかにも連絡が存在し、四月五日のWPNのパレードのなかでまとまった隊列を構成しようとの企図が急速に持ち上がっていた。この日が雨天でなければ、独自の宣伝車両としてサウンドカーが登場していたはずだったのだ。誰が黒幕だったというつもりはない。むしろ誰もが黒幕になりうる異端の集合の機運がある鬩ぎあいのなかで存在していたというべきで、それは異端者たちがそれぞれの態度に近しいものをピースパレードのなかで見いだす経験あってのことだった。五日当日、現実にはサウンドカーは出なかったが、それでもノンセクトが集中した隊列には、日雇・野宿労働者運動や党派連合の「反戦闘争実」(8)だけでなく、移住労働者のグループ、「NO WAR」の大横断幕をかかげたクラブカルチャー畑のグループ(9)、演劇人の「抵抗23」の軽トラックなども合流するかっこうとなっていた。未発のサウンドデモはこうした連携の機縁を出発点としていたとすべきだろう。そして実際に連絡をつないだ人々は、活動者と音楽関係者だけでなく、編集者、小説家、美術家、ライター、デザイナー、フリーター、プータロー、学生が含まれ、それぞれがデモの組織化にあたってノード(結び目)となるごった煮の様相を呈しはじめていた。
 機材関連の協力、PAの面倒見、DJの合流ぬきに大がかりなサウンドデモはなりたちにくい。それを可能にした条件の一つとして、皮肉にも前記した〇一年一二月のピースパレードのその後の頓挫もまた数えることができる。このパレードに合流していた音楽関係の人々が、CHANCE!人脈によるパレード後の成果独占の態度に辟易として離反し、新たな連携を希求していたのだ──ということが水面下で語られていた。いつのことだったか、あるいは反戦落書きの救対会議のあとにもたれた交流の席でのことだっただろうか、ASCの主体をなす面子の話のなかでその事情が話されていたことを記憶している。それは、それぞれが行動の成果を独占しようとさえしなければ、独自に行動する多様者として結集できるという確信と表裏をなすものだった。むしろこの多様者は、行動すれば即成果だと算定をはじめ、参加人数に一喜一憂する態度には違和感を持っていたかもしれない。いまはただ戦争に反対する明確な動きを街頭にたたきつけたい、という連なる想いの方が勝っていたようにも思われる。だから一台でもサウンドカーを登場させようとする企図がもちあがったのではなかったか。CHANCE!と分離したDJらは依然としてやる気だったわけで、そこにデモの実務に習熟する人々へと橋渡しする交流が存在していたからこそ、東京で連続した弾圧の直後のタイミングでASCのサウンドデモが浮上することが可能となったのだった。そして実務の基盤が「ピース」な人々から「言うことを聞かない」人々へと刷新されたために、警察の妨害にあくまで抵抗する態勢が後々まで維持されるデモが生み出されることとなった。気がつけば、「行動経験者」たるノンセクト/アナキスト活動者の一部は、舞台裏でデモを支える黒子などとして合流していた。もちろんDJ以外の黒子となった人々は活動者に限らず、あらゆる立場の人々がデモの組織者として協力して動いた。そしてそのためのオルグはたしかに存在した。
 こうして、ASCのサウンドデモは戦争反対・路上解放を叫ぶ独自隊列として東京渋谷の街頭に登場した。その足跡を列挙すると以下のようになる。

《二〇〇三年》
五月一〇日 STREET RAVE AGAINST WAR
五月三〇日 有事法粉砕 STREET PARTY TO DEMONSTRATION
七月一九日 PARTY!! DEMONSTRATION!! and BULLSHIT!! 禁止することを禁止する!! ANARCHY, PEACE, FREE!!DUMB
一〇月五日 SET BUSH FIRE !!! STREET PARTY+DEMONSTRATION

《二〇〇四年》
一月二四日 PARTY+PROTEST!! URGENT ACTION AGAINST SDF DISPATCH TO IRAQ!
二月二二日 BLOCK KOIZUMI!! NOT THE STREET!! PARTY+PROTEST

 英語多用とはいえ、文字どおりスローガンは硬質である。BULLSHIT!!(クソ!)という言葉遣いからも分かるように、八方美人的な路線からは遠い。FREEDOMの語尾をいいかえたDUMBの意味は「アホ」。一連のデモで唱えられたスローガンはこれだけでなく、七月一九日のデモで打ち出されたものを補足すれば、「反戦=有事法・イラク新法反対」「反失業=グローバリゼーション反対」「反管理統制=相談罪(共謀罪)・生活安全条例・教育基本法改悪反対」「反石原=ファシズム反対」云々。この七月のデモでは公安条例を口実とする弾圧がくわえられたため、以後の呼びかけには「公安条例撤廃」も追加される。とりあえず問題だと思うあれもこれもいってみた、というテンコモリ具合だ。しかしこれらすべては状況を反映した怒りの言語でもあった。このあまりに政治的とも思えるスローガンは、多様者の主体のあいだで拒絶されることもなく採用され、もののみごとに「反戦平和」運動主流に逆行した。こうしたASCの性格は、「警察のデモ警備に必要以上に協力的態度を取った、WPNのマーケティング的なオーガナイズに対するアンチテーゼとしてスタートした背景をもっている」(3)ことに規定されていた。
 それでも〇三年五月以来、ASCのサウンドデモは回を重ねるごとに参加者が増えていき、弾圧をはさみながらも一〇月には四桁にもおよぼうという予想外の勢いとなった。もちろん行動するごとに様々な人たちが主体として合流し、なかには初めてデモに参加したという人も見受けられた。あるいはレイヴカルチャーの紹介者を自負する学者がDJをやらせろといってきては失笑をかう一幕があったり、またあるミュージシャンは同じくDJを希望しながら所属事務所の制動で断念するなど、メジャー音楽業界のくだらなさをまざまざと見せつけたりもした。同じく実務を担わないまま、成果だけを眇めて急にオダをあげはじめる知識人やスノッブもいた。ようするに、一連のASCのデモ──前述のとおり形式は決して新しくはなかったが──は主催者の意図とは別に、社会運動とは従来無関係できた一定の人々にも可能性があると受け止められたわけだ。打ち出すメッセージや見てくれをソフトにしなければ新たな参加者を獲得できないなどという、みみっちいプロモーション指向をASCは行動によって嘲笑しつづけた。そしてテンコモリのスローガンを「戦争、反対」「有事法、粉砕」「こーろーすーなー」などの独特のうねりをもつショートコールに集約し、多くのデモの参加者とともに唱和していった(もちろんすべてのデモ参加者が唱和したわけではない──そんなことはありえない)。
 反戦デモをピースウォークやピースパレードといいかえる態度がはばをきかせた二一世紀初頭の「反戦平和」運動のなかにあっては、ASCがデモンストレーションやプロテストといった言葉に見せたこだわりは、それじたいが一定の方向性を示すものであった。反戦・反警察。それは、ラッパーのECDが反戦レイヴのアンセム(聖歌)としてひろいあげた「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」というフレーズがいうところの「奴ら」の態度に導かれたものだ。実際のところ、ASCの人々は総じて警察が嫌いだった。クラブなどのハコ(スペース)への締め付けと刈り込み、ストリートでの職質と令状なき身体捜索、それらすべては音楽活動に没頭する人々にとっては認めがたい敵対行為である。なにも社会運動に携わるものだけが、治安警察国家がもたらす管理社会の害毒を危惧していたのではない。また危機感を持っていたのは音楽関係者だけでもない。いうまでもないが、自由の禁止はほとんどの人間にとって耐えがたい抑圧である。日常生活での禁止、あらゆる活動での禁止、「運動」の中での禁止、それらすべてに背を向けて抗議せよというのが、低所得者〜ミドルクラスの若者の涙ぐましい消費の地である渋谷・青山・原宿の動脈のなかで、轟音とともに不敵なスローガンをかかげる行為がもちうる意味の一つであった。反戦・反派兵は反警察・反管理と結びつけられ同時に語られた。とある児童公園の公衆トイレの外壁に「戦争反対」「反戦」「スペクタクル社会」と落書きしてお縄となったKは建造物損壊で起訴されたが、東拘から保釈されたその足でASCのデモに参加した(五月三〇日)。路上解放とはつまるところ、人間の原初的な自由への憧憬を現代的な言葉に置きかえたものにほかならなかった。

弾圧と抵抗

 ASCははじめノーマークであった。しょっぱなのデモコースは渋谷一周という比較的短かめなもので、しかも「らいおんハート」なる自称で主催者が出自不明状態だったため、警察が甘くみたのだ。警視庁・渋谷署ははじめ所轄の警備警官しか出さなかったため、渋谷の街中で一挙に五〇〇名にまで膨れあがったデモ隊はストリートをわがものとした。急派遣された機動隊もはじめて見るであろう光景に狼狽するばかりで、役に立つはずもない。もちろん先頭のサウンドカーには圧力がかかったが、運転手は耐えた。しかもデモにはサウンドカーのほかにも金属製のパイプで組んだ「殺すな」御輿(乗り手=イルコモンズ)が合流し、それを数奇者たちが担いで好き放題に練り歩いたのである。デモは油断した警察を完全に出し抜いた。
 ASCは当初からReclaim the Streets!の運動を念頭においていたが(そのための学習さえ行われた)、皆がストリートレイヴがもたらす集合の力をのっけから体感することになった。しかし初発の勝利はそれまでのことだ。警察はかならず対策をたててくる。主催者自身がそう自覚していた。わたし個人は所用で最初のデモには参加しておらず、前記したデモの素描は伝聞にすぎない(10)。しかし人手不足だからとの要請もあり、その後は合流して会議段階からコミットした。そこで話されていたのが、次回以降の警察の締め付けがどうなるかということだった。もちろん企みの会議ではとほうもないアイディアがひっきりなしに繰り出されるほど自由に討議が交わされていたが、同時にほとんどの人間が弾圧を予感していた。つまりASCは覚悟したうえで勝負に出ていたのだ。派兵反対・路上解放といまいわずにいついうのか、と。
 ところが、二回目もASCのデモは警察に競り勝ってしまった。なにをもって勝ち負けとするのかは問題ではある。しかし少なくとも投入された機動隊がやはり役にたたず、終始デモ隊のペースで踊る練り歩きがふたたび貫徹されたのだ。先頭についたトラックの運転手は警察の恫喝にめげず、スローペースで運転をつづける。活動経験者は隊伍を組んでトラック直後の車道側──従来のデモでいう「右フロント」──について規制線をはねかえすために汗をかく。熱狂するデモ参加者=踊り歩く人たちと機動隊の緩衝となって、ギリギリのラインで仲間たちに「警察との対峙」のありようを例示する。弾圧させるなという緊張のもと、そのほかの要所にもはりつく。そのために事前に「意志一致」をしておく。盾をもった機動隊員がトラック前方の歩道と車道の間からの侵入をこころみると、参加者は参加者で「邪魔をするな!」といわんばかりにモッシュしながら押しもどす。面割りにピッタリくっついてくる公安をよそに、DJがパフォーマンスに没入しPAが煽りをくれる。トラック荷台後方からはダイブの嵐。前回以上に飛び込みの参加者がふえ、水ぶくれするデモ隊が街を席巻する。この志気の高さはいったいどこからくるのか。見慣れぬお祭り騒ぎのためなのか。DJが名の知れた人たちだからか。誰も答えられない状況にデモをしかけた側もまた震撼した。増員された機動隊がいまは機能していなくても、公安が手の出しかたを決めかねていても、もう次はやばいんじゃないのか。
 どの時点でだったかが思い出せないが、ASCの面々は弾圧を懸念して弾圧対策の内部学習会すらもっている。救援連絡センターから講師を招き、思いつくだけの介入の事態を想定し、そしてではどうすればいいのかと出口のない状況に悩む。出会い頭の公務執行妨害のデッチアゲはとりあえずおくとしても、公安条例違反でやられることがあるのか。条例違反で起訴はありえるのか。許可条件に縛られている以上は、暴れなくても遅滞だけで条例違反の口実とされるはずだ、云々。新顔を洗い出そうとする公安の策動もちらつきはじめていた。デモ申請者、運転手、レンタカー手配者などはすでにこのとき連中の監視下におかれていたはずだ。それでもASCの仲間たちは依然として思いつくだけのアイディアを出しあい、さらにデモが発散するエネルギーをさらに拡充するにはどうしたらいいか、そしてそれをどう現実的に着地させるかを検討しつづけた。DJが演奏するだけでなく、街頭楽団の組織化もその一つだった(イルコモンズやECDらのTCDCに結実)。サウンドシステムを一台分しか出せない貧しい寄り合い所帯では、参加者が多くなればなるほど主体の乖離がより強まることを自覚していたからだ。ほとんどすべての仲間が、会議での異様な士気のもとで、緊張と興奮のあいだを行き来していた。
 七月四日。デモのテンションは最高潮に達していたかのようだった。だからこそASCは引くに引けなくなっていたのかもしれない。とまれ踊り歩く人々のエネルギーは依然として街ゆく人々の耳目を集めていたが、問題は隊列の構成だった。デモの現場責任者となった仲間の戦術で、トラックの前に一隊をいれて責任者が指揮をとるというのである。トラック前に人を出すのは危険だという異論も事前にあったが(わたしはこの懸念に与していた)、遅滞の警告からトラックとDJを守るために現場責任者がその構成を指向したのだった。それ以外の妙案があるわけではない。そう思えるほど、サウンドカーの運転手への恫喝はすでにいっそう厳しくなっていた。警視庁のいうとおりデモの速度をあげれば、踊り歩くあの忘我のエネルギーは減殺される。現場責任者=指揮者という無茶な組み方についても、ほかに名乗りをあげるものがいないために誰もがそのまま黙認したかっこうとなった。わたしもまた懸念を抱きながら責任者の自負を阻止しなかった。
 そうしてデモ中に現場責任者が名指しで逮捕される事態となる。現場責任者Hはノンセクトの学生運動出身で、若きアナキストでもあった。後付けでしかなかったが、かれは逮捕覚悟でこの日を迎えたのかもしれなかった。というのも、Hは三月以来東京でつづいた弾圧の対策で責任者となり、一貫して救対の中心的役割をはたしていくなかで、救援活動中にふと「そろそろおれが休みたい」「たぶんなかのほうが楽だね」ともらしたことがあったからだ。ノンセクト学生による法政大ボアソナードタワーでの私学連シンポ粉砕行動(〇一年九月二一日)が、六人が起訴される困難のなかで分裂の危機に陥り、刑事・民事にわたって敗北に収斂しかかっていたということもある。その支援者だったHにしてみれば、弾圧と救対に休まることのない数年をすごしていたはずだった。デモに出る前に「速度は様子見であんまり頑張らないほうがいい」と話をしたが、Hは「しょうがないっしょ。みんなロングコース期待してるしね」と返した。「向こうの恫喝をちゃんと見て、人目のないところでは速めなよ」と念をおしたものの、無茶を阻止しないまま暗い気持ちでデモに出た。機動隊による背後からの推進規制を警戒するため、わたし自身は隊列の最後尾につく役回りだったが、やはりデモはゆっくり進んだ。警視庁の規制はといえば当然ながら回を重ねるごとに強度を増しており、このときのデモでは歩道側に機動隊が並んで通行を遮断し、野次馬の合流を阻止しようと躍起になっていた。車道側から盾で圧縮をかけるのはいうまでもなく、サウンドカーの前には指揮官車を、最後尾にさえ機動隊をはりつけて外から見えないようにするなど、周囲から封殺する「軍艦巻規制」のプロトタイプをぶつけてきたのだ。
 デモコースを三分の二は進んだころだったろうか、急遽前に呼ばれた。「Hがやばいから来てくれっていってます」とレポ。やっぱり捕られるつもりなんじゃねえかと思いながらも、先頭で指揮するHの身辺についた。決意していたのだろうがHは踊りまくっていた。そしてトラック前の隊列とトラックとのあいだが間延びして心許ない状況だったが、ほとんどの人は楽しそうにしていた。それからどれだけ時間が経過しただろうか、私服が突然Hの戸籍名を怒鳴ってつっこんできた。やっぱり来たか! そしてその背後には遅れをとるなとばかりにいきりたった機動隊の連中もつづいていた。これが二名の逮捕者を出した弾圧の引き金となり、Hが東京都公安条例違反(遅滞)で、もう一人が混乱のなかで公務執行妨害をデッチアゲられた。公安が突入してきたときHはとっさに後ろに身をひいたが、横断幕の前で踊っていたのが仇となってすぐに取り押さえられた。わたしはといえば、襲いかかってくる機動隊に打ち倒され、情けないことに機動隊・公安・デモ参加者の混乱の下敷きとなってしばらく踏みしだかれていた。
 近くにいた権対記録で写真撮影をしていたBも倒されたが、その外側から公安が引っ張っていたため下敷きになったまま互いに腕をつかんで耐えた。そうして混乱からなんとか抜け出してみると現場はひどいありさまとなっていた。機動隊員とデモ参加者のワヤクチャのもみあいで手が出せない。こりゃ何人かパクられんなと思いつつ、背後で公安が狙っているのにさらに突っ込んでいこうとする単パネをおさえたり、捕られそうになっている仲間どうしでかばいあったりしているうちに、警察側があらかた場を制圧したあげく、ようやく小康状態となった。ほかに主催関係者がその場にいたのを確認したわたしは車道からぬけだし、Hと学生運動をともにしてきたTと行きあい脇道にそれた。Tがすぐに救援連絡センターのメンバーに一報をいれ、H以外にも複数の逮捕者を出したことを確認しつつ一緒に解散地点まで急行した。やはりテンパっていたのだろう、救対のため先行して集約・連絡・対策検討などの初動が必要とばかりに動いたのだ。しかし集約といっても確認できたのはHの逮捕と、混乱のなかで他にもひっぱられたんじゃないかということだけで、情報は錯雑としたままだった。そうして非主催者のMが立て直しのデモ指揮をしぶしぶ引き受けざるをえなかったと後からきいて、すぐに現場を離れてしまった迂闊さにわれながら呆れた。Mがいうには、声をかけても主催関係者の誰もひきとらなかったというありさまだったのである。デモ後尾の権対にいた人間を途中で先頭にひっぱるくらいだから推して知るべしという状況で、わたし自身もその無責任の空隙のなかにいた。やばい局面でのケツワリはいってしまえばありがちな話ではある。それにしてもだ。指揮者ひとりが逮捕を覚悟するようなデモの組み立てといい、権力対応の体勢づくりの不備といい、自己組織化につめの甘さがあったことは否定できない。ASCはデモ解散後に渋谷署に抗議行動をぶつけ、夜半に救対会議をもって長い一日を終えた。
 ついに予感が現実のものとなった。もちろんデモの速度までしばりつける治安警察活動が絶対におかしいのだ。だが、その不公正に組み敷かれてきたのがこの地の社会運動の現実ではないか。サウンドデモも例外ではない。当初の幸運な突破はいまや大部隊の機動隊にブロックされる隘路におしこめられた。デモ隊と野次馬も分断されつつある。しかしそうとばかりもいっていられない。弾圧後にはASC関係者への聞き込みや任意出頭要請などの攻撃もあったが、ASCはそれをはねのけ、救対DOP(Defend Our Party)をたちあげてフル回転で救援対策に没頭した。DOPは従来のとおり救援活動をすすめ、ASCは音楽村でたきつけられる論難に対処するために慎重さをもってキャンペーンに取り組んだ。しかし──逮捕されるほうが悪いんじゃん、それが一般的な反応だった。被疑段階での推定無罪原則など、刑事司法のイロハさえほとんど通用しない。ECDが主宰するネット掲示板には悪意の書き込みであふれた。ASCとDOPのメンバーはほぼ重複していたが、皆が持ち場をいかして弾圧の不当さと自ら信じるところを周囲に伝達していくしかなかった。しかしさすがにサウンドデモ主体からスピンアウトしただけのことはあったのか、DOPはニコタマ(二子玉川)の川べりで小規模ながらレイヴイベントさえ実行した。それはそれだけ多数多様の人々がデモにかかわっていたことの証左であった。また当然ながら、仲間の勾留が不当にも認容されてから渋谷署に激励行動におしかけてもいる。房内に音が通じやすい裏手の狭い路地にまわったため警官に包囲されかかるところだったが、Hによればその激励の声は房内にも届き、同房者に声をかけられたという。まったく別件で留置されていて、釈放後にデモに合流したあるバンドの人間がいうには、やはりシュプレッヒコールが聞こえたそうだ。「仲間って感じっすね」というのがその感想だった。
 結局、ASCは逮捕された二人を不起訴で取りもどすことができた。警視庁は弾圧でデモを叩きつぶすつもりだったのだろうが、ASCは反転攻勢に出る。救援で間があいたとはいえ、一〇月に「SET BUSH FIRE !!!」(ブッシュをクビにしろ)と大上段にかまえて復活のデモを打つのである。しかもデモ前の渋谷・宮下公園でのパーティを大きくしかけ、二基のDJブース、バンドやアーティストのギグ、シンポ、美術家の即時インスタなどがセットされ、行動は終日規模となった。わたし自身が参加するハードコアパンクのバンドもギグらせてもらったが、演奏に応じたのは多様なジャンルの人々だった。パンクあり、ポップな弾き語りあり、ラップあり──。またASCは自前のウェッブサイトで「ANTI POLICE ACADEMY DEMONSTRATION GUIDELINE」と銘打った反弾圧のプロパガンダを事前に展開し、デモ参加にともなうリスクを説明しつつ警察への警戒を呼びかけた。ECDがつくった強烈なプロテストソング「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」も弾圧後ほどなくしてサイトで公開していたが、当日本人が用意した自主制作のCD‐Rはあっというまに完売した。その曲名は七月の弾圧の直後に誰かが叫んだ言葉からとられており、まさに反弾圧の歌にほかならなかった(11)。またASCは、デモ前のイベント中に救援連絡センターの電話番号である「三五九一‐一三〇一(ゴクイリイミオオイ)」をプリントしたシールを参加者にばらまき、万が一のときの対応をアナウンスしている。だからなのか、それにもかかわらずというべきなのか、デモ前から異様に密集した空間は七月以上の熱気をはらみ、それがそのままデモに持ち込まれた。弾圧をくったデモにようこそ!
 大げさな乱闘服の機動隊はさらに動員されていたが、ASCは士気を維持したままこのやり返しのデモを貫徹する。しかし現場責任者や運転手などへの恫喝はますますひどくなり、また集中的に行動してきたこともあってか、ASCの仲間たちに疲労感が蓄積しつつあったようにも見えた。裏を返せば、それだけ「いまやらずにいつやるのだ」という切迫する動機に自ら鼓舞されていたのかもしれない。その根底にはやはり、戦争への道をひたはしる状況への苛立ちと怒りがあった。戦争、派兵、有事立法、なにひとつ阻止できない。サウンドデモというアウトプットがお祭り騒ぎだとしても、暴走する戦争国家を止められないことと、抗議の声を圧殺しにかかる治安当局への怒りがなければそもそもデモをやるはずもなかった。「騒ぎ」は「正気」ではいられない状況の反映だったのではないかとさえ思われた。それが「ぼくらの住むこの世界にはデモに出る理由があり」(イルコモンズ)、ということの意味だったのである。「反」のデモは、つねに状況に抗する反動としてあるのだ。
 この後、ASCは年明けて二度デモを行う。デモの途中参加・離脱への不当な妨害について、弁護士帯同で警察に抗議にいくなどの地道な対応も実施している。またASC内外の有志が、別主催の「Xmas MISSION/イラク占領戦争反対宣言街頭行動」(〇三年一二月二四日)の渋谷一周デモに協力し、荷台には乗車しない軽トラ利用のサウンドシステムを組んでもいる。とまれ、ASC主催のサウンドデモは〇四年二月に終曲を奏でた。打ち止めという結論を会議で出したわけではなかったが、自然消滅に近いかたちでASCは動きを止めたのだった。

並行と拡散

 人々の集合からほとばしる熱狂は、人それぞれの潜在的欲求を誘引する。サウンドデモもその例外ではなく、ASCのデモに並行する動きとその後の伝播があったことは周知のとおりである。とりわけ関西のサウンドデモ(12)が、東京に並列する独自の行動として際立っていた。

《二〇〇三年》
八月三日〈大阪〉路上解放☆道頓堀ぐるぐるデモ
一〇月一九日〈京都〉反戦デモンストレーション「解放どすぇ〜」

《二〇〇四年》
五月八日〈大阪〉反戦デモンストレーション アメ村右往左往
七月四日〈京都〉小泉政権打倒 改憲阻止 路上解放デモンストレイション(※リヤカー二台×バンド)
九月一九日〈京都〉反戦ミュージック2004(※リヤカー)
一一月二三日〈大阪〉早起き大阪城 〜基地いらん! 戦争あかん! 11・23関西のつどい〜

《二〇〇五年》
九月一一日〈京都〉反戦ミュージック2005(※板にCD‐J×二台×トラメガ)

 ASCが〇四年二月で停止したのに対し、トラック利用型の関西のデモは、一連の流れとしては同年後半まで維持される。これは関西の友人に聞いたことだが、たとえ大がかりなものでなくても、リヤカー型のサウンドシステムの利用は昔から行われていたという。京都では「海の日を火の海に」をスローガンを掲げた行動が最初だともいうが(13)、そうすると九〇年代のノンセクト学生がすでに行っていたことになる。この先駆けの詳細については関係者の報告を待つしかないが、〇四年七月に行われた京都の「反戦・反政府行動」(14)のデモで、リヤカーを二台つなぎあわせた台車にバンドをのせて練り歩くという「秘密兵器」が登場していることを見れば、その前史について類推するのも容易となろう。
 ともあれトラック利用型の関西のサウンドデモは、ASC登場以来、三カ月後には敢行されている。もちろん独自デモへと向かう機運はそれ以前からあったに違いない。やはり友人によれば、関西でもピース一色からはみ出さざるをえない有象無象が結集していく機縁が徐々に形成されていったという。一〇月一九日の「反戦デモンストレーション「解放どすぇ〜」」の主催者名に「はみ出しサウンドシステム」が名乗られているように、これを一口に「ノンセクトの」などと形容してしまえば現場共闘の多層性を矮小化することにもなるだろう。関西においてもまた活動者、音楽関係者といった属性の違いはたしかにありながらも、そしてその多様性が決して同化してしまわないまま、有象無象の一時的な融合のもとにデモが成立したことは記憶しておいてもよい。協働が人の営みに当たり前のことだとしてもだ。その当たり前が共同行動の現場でふたたび勝ちとられねばならない悲惨さのなかにわれわれはいま生きている。軋轢回避の性向とその裏腹の狷介さが社会運動における〈我と汝〉の前に立ちふさがる問題としてあるなら、同化しない個我を保ちつつも行為において一致しようとする態度こそが、自律的な行動をうみだす一要素たりうるはずであった。

「今回のイヴェントはいろんな意味での異文化交流というか、カベを取っ払うきっかけになったらいいと俺は思っていた。音楽やってる連中と真剣な反戦運動との間にある、なんか気持ち悪いカベ。音楽やってる連中のなかでも、クラブ・DJ系と俺みたいなバンド系(…系という分類は好かんけど敢えて便宜的に使う)の間にやはりある、カベ。現実にものすごい暴力に囲まれ日々殺されゆくイラクやパレスチナの人々と、戦争大好き大ボケ政府を現実として許してしまってて、どうしたらええのか途方に暮れてる俺らとの間にある、絶望的に高く巨大なカベ。反戦と言ったら引いてしまう友人たちとの間にある、日々感じる微妙なカベ……。」(15)(ヒデヨヴィッチ上杉)

 これは〇四年一一月の「早起き大阪城」に参加した一バンドメンバーの言葉だ。「早起き大阪城」は、もともと関西の反戦運動の共同行動枠によって行われた「基地いらん! 戦争あかん! 11・23関西のつどい」に合流して成立したもので、集会の前段に「くされ戦争社会に告ぐ 早起き大阪城ライブ」が接合され「反戦ミュージック」関係の五バンドが演奏、そして集会後のデモには有象無象のサウンドカーが後尾につくという按配であった。つまり関西では独自デモから共同行動への参加へ、というひとつの展望が切り開かれたわけで、当時の反戦運動のなかにあっては東京での分立を逆にのりこえる共同性が成立しつつあったとさえいえる。しかし関西サウンドデモの共同行動への合流の帰趨は中途のままとなった。
 いずれにせよ、回数を重ねるごとに参加者・協力者がふえ、交流もまた広がっていくという運動のありようは東京と共通していた。京都の反戦ミュージックにしても早起き大阪城にしても、一時的にではあれ「カベ」を突破しようとした多様な人々の努力のもとにあったはずだとするなら、当然その事実の記憶や人のつながりは種となってばらまかれたことになるだろう。
 行動の熱は伝播する。その最初期のものに、〇四年六月六日名古屋で開催された「DISCHARGE YOUR ANGER! DEMONSTRATION/STREET PARTY」(16)がある。このサウンドデモは名古屋の野宿労働者・支援者、アナキスト、パンクスが恊働して準備したもので、各地からの参加が見られたが、とりわけ東京からはマイクロバスをチャーターするほどの人々が合流した。PA機材もまた東京から飛んだが、それはパンクスのネットワークに支えられたものだった。休憩スペースの提供・設営や食の提供といった各地からの参加者のためのホスピタリティ(同志的歓待)の面では、「野宿労働者の人権を守る会」(名古屋)が活躍している。同年中の東京では、ASC以外のサウンドデモとして「貧乏人大反乱集団」有志による「輸入盤CD規制反対大暴動in新宿」(17)(六月一三日)や反戦落書き当該らの「KNOCK OUR SECURITY!! GRAFFITI AGAINST CONTROL!!! デモンストレーション@杉並帝国」(18)(一一月一四日)も行われた。とくに前者は反戦にとどまらない広がりを示すものだったが、やはりそれまでのサウンドデモの波濤から派生した動きと捉えられるだろう。実際、機材の貸し借りなどの連携から見ても、先行した反戦サウンドデモによって培われた交流の拡延がデモ伝播の基礎的な条件となっていたことは間違いない。
 やがてサウンドデモは一つの転機を迎える。東京と関西での草創期の運動が終息したこともそうだが、サウンドデモの初期のエネルギーに対する警察の動向もまたこの転機にからんでいる。警察が運動の広がりをなんとかしておさえこもう、あわよくば弾圧して蹴散らそうと躍起になっていたことは当初から明白であった。とくに東京では、警察とは微妙な対応に終始したピースな運動と分岐するかたちでサウンドデモが一定の吸引力を発揮したため、予定調和の外で自律的な運動が拡大することに敏感な警視庁が目の敵にするのも必然的だったといえるだろう。しかも実際に弾圧された東京だけでなく、関西でも逮捕者こそ出さなかったものの厳しい介入を受けていた。〇三年一〇月の「解放どすぇ〜」では京都府警がデモを出させないような阻止介入をはかったというし、また〇四年一一月の「早起き大阪城」のデモにおいても大阪府警がサウンドカーの出発を大幅に遅らせる分断工作をしかけている。自律的な運動を形成しようとする動きは、どこでも警察の重点対策の的となったのである。東京のASCは弾圧後のやり返しでなんとか盛り返したかたちにはなっていたが、大部隊の機動隊を動員して周囲をぐりるととりかこむ東京に特異な「軍艦巻規制」は、「言うことを聞かない」一部ノンセクトの報じ込め策としてその後も警視庁に採用されていった。過剰ともいえる警察の対応は東京でさらにエスカレートする。すちわち、トラックの荷台でDJがパフォーマンスを繰り広げることに対し、直接介入をはかる警察の方針がやがて出てくるのである。
 そもそも東京・京都・大阪の初期サウンドデモは、法制度上は通常の届け出デモの範疇にあった。三都市とも公安条例が制定されているため、実質許認可制にされてしまっている「デモ申請」をとおしてのデモだったが、それでも条例の規定にそった申請だけですんでいたのだ(公安条例が存在しない自治体下にあっては道交法規制のもと警察署への「届け」が慣行化している)。問題はここにくさびを打ち込もうとする警察の弾圧策動の進展である。「目的外乗車」として荷台乗車に難癖をつける強引なやりくちを警視庁が採用したのは〇六年のことだった。そのため、四月三〇日、東京で企画された「自由と生存のメーデー」(19)のデモが弾圧された。デモ申請だけで同様のサウンドデモが行われてきた数年の慣行を警視庁が突如くつがえし、DJの荷台乗車を道交法第五五条違反とデッチアゲたのだ。しかも道交法にひっかけて切符をきるならまだしも、サウンドデモのキーパーソンとなるDJを逮捕するというなりふりかまわぬ弾圧だった(公妨含め計三名逮捕)。この弾圧を主導したのは警視庁公安部で、所轄署マターではないところに問題の焦点がある。では政治警察が弾圧をしかけた意味とはなんなのか。反戦運動から派生したサウンドデモが、反戦を「階級」的な課題ととらえようとする運動にも波及したことへの反応だったのではないかという分析も語られたが、確たることは分からない。そもそも前年のメーデーでは同じ態様のサウンドデモが無事に行われているのである。同年三月一八日の「素人の乱」(20)による反PSE法のサウンドデモが大いにもりあがってやりたい放題だったため、警視庁が激怒してノンセクトのサウンドデモに対する弾圧方針に影響を与えたのではないかという話もあったが、やはり実際のところは不明だ。しかし少なくとも、荷台乗車弾圧の方針をすべてのサウンドカーに対して適用せず、挑戦的なノンセクトだけを狙い撃ちにしたことが警備公安警察の意図を物語っている。弾圧直後の五月三日の憲法記念集会のデモではピースボートがサウンドカーを出しているが、警視庁はとくに介入しなかった。警察が容認するなかば制度化された秩序のなかにとどまるデモは慰撫・馴致する。「言うことを聞かない奴ら」はたたく。とくに広がりを持ちはじめたところは徹底的に封殺する。ようするに「反乱者」をスケープゴートとする見せしめによって、〈戦争‐治安〉体制の流れに逆行する「反攻」を阻止しようというのが警察の方針だったのである。
 弾圧された自由と生存のメーデー側は被疑者全員を不起訴で奪還し、八月にやり返しのサウンドデモを行うが、道交法弾圧への対応として、同法第五六条の規定を逆手にとって荷台の「目的外乗車申請」をデモ申請と同時に実施することでやりきった。以後、「反攻」的なノンセクトが中心となる同メーデーや「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」(21)では、この二つの申請をもってサウンドデモを行うことになる。デモ申請は出発地の管轄署(警備課)を経由して都公安委員会に出すのだが、荷台乗車の申請は同じく交通課に出して建前としては署長の決済を受ける。法理上はこれでつけいる口実をふさいだかたちとなるものの、その後も(DJは座れだのなんだのの)荷台乗車の態様への恫喝を含め、「言うことを聞かない奴ら」のサウンドデモは公安部の攻撃と鬩ぎあわなければならない緊張のもとに置かれつづけている。しかも〇六年の弾圧では国賠提起などにもちこんで決着をつけるところまでは対応しきれなかったこともあり、デモの宣伝車両に対する不当な道交法五五条適用が少なくとも東京の現場では生きているかっこうだ。つまり一部のサウンドデモは押しこまれたままなのである。しかしもとより公安条例によってデモが官許のものとされる根本的な葛藤の文脈のなかで、この矛盾はあらためて捉えなおされる必要があるだろう。
 なお、荷台乗車を道交法でひっかけようというやり口はすでに〇四年の名古屋で現れている。名古屋サウンドデモが申請時に難癖をつけられ、デモ申請とは別に荷台乗車申請を強制されたのだ(22)。主催者は荷台乗車申請も提出するかたちで申請をめぐる攻防に決着をつけて公然デモを無事にやりきるのだが、これこそがサウンドデモ特化型弾圧のはしりと見るべきだろう。従来この攻防の意味があまり重視されてこなかったために、〇六年の東京での介入に前もって対応しきれなかったのではないかとも思われる。
 しかし一部で困難が深化しつつあるなか、反戦の課題とともに路上解放を一意に訴求したサウンドデモが街頭行動の一表現手段として転化・拡散していったのも事実なのだ。転機が意味するもう一つの内容は、デモがあちらこちらに拡散していったことにある。ASCや関西のサウンドデモでは街頭表現の自由が縮減された状況をとらえ、デモの訴えに路上解放そのものを盛り込んでいたが、やがてこの訴求を自明なものとしてことさらに言及しないかたちでのデモがつらなっていく。

《二〇〇三年》
一二月四日〈東京〉Xmas MISSION/イラク占領戦争反対宣言街頭行動

《二〇〇四年》
五月一日〈東京〉新宿フリーターメーデー(※台車)
六月六日(名古屋)DISCHARGE YOUR ANGER! DEMONSTRATION/STREET PARTY
一一月一四日〈東京〉KNOCK OUR SECURITY!! GRAFFITI AGAINST CONTROL!!!
一一月二〇日〈東京〉反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2004(※リヤカー×バンド)

《二〇〇五年 》
五月一日〈東京〉自由と生存のメーデー
五月一日〈松本〉ダメーデー(※リヤカー)
八月二〇日〈東京〉放置自転車撤去反対! オレの自転車を返せデモ!!
一一月一九日〈東京〉反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2005(※リヤカー×バンド)

《二〇〇六年 》
三月一八日〈東京〉PSE法反対 高円寺・中野デモ
三月二一日〈東京〉『まもれ シモキタ!』パレード
三月二五日〈大阪〉反PSE法サウンドデモ
四月三〇日〈東京〉自由と生存のメーデー2006(※三名逮捕の弾圧)
五月一日〈松本〉ダメーデー(※リヤカー)
八月三〇日〈東京〉8・5プレカリアート@アキバ(※四・三〇メーデー弾圧のやり返し)
九月一六日〈東京〉家賃をタダにしろ!中野↑高円寺一揆!
一〇月一四日〈福岡〉路上から憲法を問うシリーズ2・革命と抵抗のサウンドトラック
一〇月一七日〈東京〉サウンド・パレード「下北INSIST!」
一一月二六日〈東京〉反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2006
一二月三日〈仙台〉STOP! 再処理! STOP! 六ヶ所!仙台サウンドデモ(※台車)
一二月二四日〈福岡〉路上から憲法を問うシリーズ3・路上解放祭

《二〇〇七年》
四月一日〈仙台〉Halutigu Rokaŝo 2007(※台車)
四月一日〈福岡〉エイプリルフールデモ(※台車)
四月二八日〈松本〉ダメーデー(※リヤカー)
四月三〇日〈東京〉自由と生存のメーデー2007
五月一三日〈東京〉マリファナ・マーチ
五月一九日〈福岡〉生きづらい?生きさせろ!五月病祭(※台車)
六月三〇日〈東京〉アキハバラ解放デモ(※台車)
一一月一八日〈札幌〉路上デモンストレーション「G8サミット歓迎に非ず」(※小型二輪車)
七月二二日〈京都〉戦争とピンハネに抗議する「ただのデモ」(※台車)
一二月一日〈東京〉反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2007(※バンドカー+DJカー)
一二月二四日〈福岡〉どぶろく祭(※台車、ビートのみの「脱サウンドデモ」)

《二〇〇八年》
二月一〇日〈熊本〉ニートデモ@熊本(※台車)
四月二九日〈京都〉恩恵としての休日より、権利としての有給を!
四月二九日〈熊本〉KY(くまもと よわいもの)メーデー(※台車)
四月二九日〈札幌〉自由と生存の連帯メーデー
五月一日〈東京〉マヌケな奴らの高円寺メーデー
五月一日〈福岡〉フリーター/貧民メーデー 五月病祭2008(※歩道のドラム隊が「無届けデモ」で阻止弾圧)
五月一日〈松本〉立ち上がれない者たちのメーデー(※台車)
五月三日〈東京〉自由と生存のメーデー2008
五月四日〈東京〉マリファナ・マーチ
六月二九日〈東京〉G8サミット直前東京行動 オルタナティヴサウンドデモ
七月 五日〈札幌〉チャレンジ・ザ・G8 1万人のピースウォーク(※一部隊列にサウンドカー、四名逮捕の弾圧)
七月一二日〈東京〉のびのびイルコモンズデモ(※五日の弾圧抗議のサウンドデモ)
一〇月一九日〈東京〉反‐貧困世直しイッキ!大集会(※一部隊列にサウンドカー)
一一月一六日〈京都〉立命にちょっとひとことデモ(※台車)
一一月三〇日〈東京〉反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2008
一二月二〇日〈東京〉電気料金値上げ、おかしくない? みんなのエネルギー☆デモvol.4
一二月二四日〈東京〉クリスマス粉砕 高円寺デモ!!

《二〇〇九年》
一月二九日〈京都〉 奨学金滞納者ブラックリスト化反対!! 学費をタダに!!デモ
四月二九日〈熊本〉くまもとならずものメーデー(※台車)
四月二九日〈札幌〉自由と生存の連帯メーデー
五月一日〈東京〉阿佐ヶ谷メーデー[A-MayDay]
五月一日〈福岡〉不安定貧民の蠢動(※ドラム隊)
五月三日〈東京〉自由と生存のメーデー2009

(性的マイノリティのパレード群は先行潮流としてここでは外した)

 こうして見れば、サウンドデモはもはやデモの実行手段としてありふれたものとなっていることが分かるだろう。これら以外にも、「みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会」(東京)が呼びかける「アルミ缶やお鍋などを家にある物やゴミとして捨てるような物を使い、一人ひとりが音をかきならすタイプ」の「手作りサウンドデモ」もある。いわばプリミティヴなマーチングバンドだ。各人が演奏する楽団タイプを数えるなら、イラク反戦運動のなかでストリートブラスバンドの「ソレデモてくてくオーケストラ」が東京で活動していた(〇二〜〇三年)。
 とはいえこのように無造作に列挙すれば、独自の論理のもとに企図されたそれぞれの行動の意味を捨象するものとして異論をとなえる主体もあろう。あるいは東京中心史観でまとめるなという批判もあるだろう。しかし初期サウンドデモが路上解放という街頭行動にとっての当たり前を提起しなおしたことに意義があるとすれば、それはこれらのデモのなかにも息づいていたはずだ。しかも他の街頭行動と同様に、そこには外部との軋轢がともなう。人の社会的行動があらゆる局面で管理・封殺されようとする高度治安化社会の現状にあって、公然・合法のかたちをとるあれこれのサウンドデモは、やはり困難な状況を突破しようとした“〇三年”以後の存在以外ではない。
 では祝祭的と評されるサウンドデモは、現代においてのみ示顕せざるをえない流行にすぎないのだろうか。いや、むしろ古くからくりかえされきた日本民衆の練り歩きの伝統が、時代状況に応じて装いを新たにしつつも反復する歴史的存在として現れたものと位置づけられないだろうか。「近代」以来の日本の示威行進が、そのはじめから祝祭的な様相を帯びていたことは周知のとおりだ。そしてその祝祭的行動の源はさらに幕末期の社会的混乱のなかにさえ求められるだろう。街頭行動をとりまく社会的(外的)な条件をいやおうなく引き継ぐという意味では、現在のサウンドデモは“〇三年”前後がどうあれ、いうまでもなく先行するすべてのデモの申し子である。

抑圧の反復と解放の方図

 寄りあい、音を鳴らしつつ示威行進(デモ)をおこなう。そうした〈祝祭=叛乱〉の両義性をおびた実践の淵源は、遠く一九一〇年代末にまでさかのぼることができる。この時期の都市民や労働者の街頭行動はたしかに喧しいもので、往々にして喚声と歌声がともなっていた。いや、そもそも幕末期のエエジャナイカや世直し騒動(一揆)の群衆の熱狂のなかに祝祭的叛乱の先駆的類型を見いだすことさえ可能だ。民衆闘争の記録をひもとけば、ほとんどいつの時代も気勢をあげるために音声の活用が顕著だったことが明らかとなる。
 たとえば一八六八年(明治元年)の会津農民の世直し騒動がある。貧しい農民たちは、会津藩が新政府に敗北することになる会津戦争の虚をついて蜂起し、やがて新政府にさえ対決するかまえを見せるのだが、この騒動をして一名「ヤーヤー一揆」ともいう。これは一揆衆が肝煎り宅などの打ちこわしの際に「ヤーヤー」と鬨の声をあげたことによっている。もちろん吶喊の喚声は洗練された音楽ではありえないが、しかし叫び声の心意は集合的行為の律動をしっかりとささえたことだろう。集合する叫喚(音)─激しい身振りの一体性は、つねに民衆の戸外行動の底流をなす基礎的な態勢であった。その意味でこの鬨の声は、一騎打ちにのぞむ武士の名乗りあいとは根底から異なる性質のものであるだろう。また、幕末最大の一揆となった武州世直し一揆では、一揆衆が鳴りもの(太鼓・銅鑼・ホラ貝など)を使って気勢をあげたことがよく知られている。それは敵対者への数を恃んだおどしであり、かつ自分たちへの激励であった。米麦の廉価販売を拒んだ飯能町酒屋八左衛門宅の打ちこわしに際しては、さらに衆徒は「諸人助けのためなり」とのプロパガンダを叫びつつ行動したのであった。
 ところで一九一〇年の大逆事件によってもたらされた「冬の時代」(23)にあっては不分明ではあるが、この当時に労働者の示威運動があったとすれば労働歌をともなっていたと考えられる。というのも、二〇年五月二日に東京上野公園で開催された日本最初の労働者メーデー(24)では、やはり労働歌やメーデー歌(25)が口々に歌われているからだ(「労働歌を高唱して三箇条の決議に気勢を揚ぐ」『東京日日』三日付)。在京労組によるメーデーの機運をもたらしたILO労働代表官選反対運動でも同様で、一九年一〇月六日には芝公園から明治座をコースとした一〇〇〇人の集団示威が闘いとられ、この行列のなかで「〽目醒めよ日本の労働者──」と歌われたという(『大阪朝日』同日付)。やはり気勢をあげるのに音声が重用されているのだ。
 当時の諸新聞を追えば、二〇年以降各地で開催されていくメーデーの典型として、その示威行進のほとんどに楽隊がともなっていたこともまた確認されよう。もちろん楽隊は示威にあたって行進曲を演奏し、また労働歌・メーデー歌を合唱するために用意されたものである。二一年五月一日の大阪メーデーを例にみると、「一時四十分大旗を先頭に音楽隊の行進曲に唆られながら示威運動は開始され」ている(『大阪毎日新聞』五月二日付)。労働争議にともなう街頭行動においても同様である。二一年一、二月に橋本造船所(神戸苅藻島)で三〇〇名が決起した解雇撤回争議では、労働者自身の楽団が登場した。すなわち、交渉者・久留弘三(26)がかけあった際の県知事・警察部長の「同情ある回答」「口吻」の報告をうけ、「罷工職工は大太鼓やブリキ鑵を打鳴らしメガホンで労働歌を高唱しつつ一同造船所の周囲を練歩いて示威行列を行い大に気勢を挙げた」(『大阪毎日』二月一日付・兵庫県附録)。
 あるいはこのころの労働者のデモ隊といえば、たとえ楽隊がなくとも歌い、万歳を唱えるのが常道であった。たとえば、一九年五月二五日に開催された印刷工組合信友会の臨時総会は、当初開催を予定していた東京芝口の弥生倶楽部にダブルブッキングを口実に貸席を謝絶され、戸外で野次馬もまきこみすったもんだのあげくに神田松本亭に場所を変えることで落着したが、水沼辰夫(27)ら信友会の主だった活動者の機転もあってショバ変えの移動がデモに転化し、「一同四尺余の赤旗を先頭に押立て隊伍を整えて芝口より銀座通りを神田へと口々に団結の歌及び万歳を連呼」した(『東京朝日』二七日付)。なお信友会はのちのアナキスト系労組として有名だが(この当時は普選要求派の組合員も存在した)、会旗は真紅の三角旗であった。
街頭での高唱といった行動様式は、民党や自由民権運動の文化=政治運動としての側面をもっていた壮士演歌(壮士節)から影響を受けていたのではないかとも考えられる。労働歌や革命歌の高唱は単に歌うばかりではなく、発語のなかに社会的・政治的なスローガンを織りなすことを目的としていたからである。合唱は気勢をあげるとともに自らの意思を喧伝する武器であった。かかる雰囲気を伝えるものとして、示威運動中の発声を「壮語」と註する新聞報道もある。これに関連して留意すべきは、二〇年代前半には定型的なシュプレッヒコールが存在しなかったように思われることだ。だからこその高唱だったのではないか。とすれば、つまり、この高唱は歌というよりも、悲しいほどに限りなく絶叫に近い発語としてあっただろう。
 それにしても、煽動者の発声に続いて多数者がスローガンを唱和するシュプレッヒコールは、いつごろ現れ定着したものなのか。第二次大戦以前のプロレタリア演劇運動のなかでは積極的なその姿は見られない。むしろ四〇年代の総動員体制に沿う文化政策に鼓舞された「素人演劇(国民演劇)」において、民衆の協同性を涵養するものとしてシュプレッヒコールが重用された痕跡がある。この素人演劇は総動員体制下の労働力再生産の便法として位置付けられており、それまでのプロレタリア演劇の成果を戦時国家が吸収するものでもあった。シュプレッヒコールそれ自体は、四〇年代以前の演劇運動のなかに登場していた可能性はある。しかし、その反復─定式化が、たとえ部分的なものであれ「国民連唱」などとして演劇国策化の道具とされたことは歴史の皮肉である(小川史「1940年代素人演劇史論」)。シュプレッヒコールはもともとドイツ・プロレタリアートの文化的な武器であったからだ。
 なおメーデーや労働争議に際しての集団示威は、当初から官憲と対峙することとなった。とくに東京・大阪での警察の介入はひどく、「札付き」の主義者の狙い撃ち検束や、書かれてあるスローガンの「不穏」を口実とした長旒(のぼり旗)の押収、デモコースへの干渉などがしばしば行われたが、それら以外にも、状況に応じて歌の高唱すら禁じることさえあった。その一切の法源が治安警察法(一九〇〇年公布)であった。自由民権運動をおさえこむために制定された集会及政社法(一八九〇年公布)に、新たに労働運動取締の権能を包含させた弾圧法である(争議行為に特化した弾圧法として、治警法第一七条撤廃の代わりに暴力行為等処罰ニ関スル法律が二六年に制定されている)。第二次大戦以前には労働者の争議行為だけでなく、示威運動はすべてこの治安警察法によって規制された。したがって、戦後の多くの自治体が公安条例を制定して示威運動を警察・公安委員会の許認可制のもとに縮減していったことは、戦前の弾圧状況への回帰とみなしてよい。戦前の示威運動もまた事前に届けなければ蹴散らされる圧制のもとにあったが、警察が申請を許可する際に様々な規制をかけるのが常であった(三六年の全国的なメーデー禁圧は内務省警保局が断行)。労働争議のヤマ場での示威行進ともなれば、その気勢を殺ぐために治安当局は当然のように労働歌・革命歌を禁止する。つまり、音声が徒党の結束に大きな影響をおよぼしていく人々の心性を警察もしっかり把握していたわけである。この意味で、示威運動における集合的な音声がもつ潜勢力をとりまく抑圧の状況は現在とそれほど変わらない。
 これら粗雑な跡づけだけでも、現代のサウンドデモが近代における政治権力と民衆の鬩ぎあいをなぞらえる「反動」であることが浮かび上がるだろう。シュプレッヒコールが「古い」のであれば、元来が歌舞音曲の徒である日本民衆──世界の民衆というべきか──の集団行動の反復のなかに、サウンドデモの「新しさ」も例外なく引きずり込まれる。しかし否定的な意味をもってここで反動というのではない。「あるべき社会」が措定されるのだとして、それに逆行する時代状況への対抗としてのそれを見るのである。この反動はつねに状況においこまれ閉塞させられる人々の対応である。ではこの名状しがたい不服従の具象としての示威運動は、変革の展望を描きうるのか。
 サウンドデモの平明なとらえ方として、エエジャナイカへのアナロジーがある(28)。とりわけ幕末期のエエジャナイカは「世直り」の思想(信仰)を底流としてもっており、つまり社会変革の主体としては能動性を欠く受動態のままの運動であるとされる。

「世直しといわず世直りと称する時、そこには主体性の欠如がある。観念的であっても誰が何を目的として世を変革させていくかという点に世直しの真骨頂があるとすれば、世直りは、世がただ受動的になんとなく改められればよいという心意である。」(29)

 自らかかわってきたサウンドデモを努めて貶めるつもりはない。しかしこのデモが社会変革を希求するものであった/あるかどうかは一概にいうことはできない。エエジャナイカへの類似を指摘する種々の言説が目的とするところがどうあれ、サウンドデモはむしろ「世直り」的受動態をデモ参加者にもたらす側面があるという意味において、そのアナロジーは正当だ。関西サウンドデモの「踊らされるな。自分で踊れ。自分で好きなように踊れ」という呼びかけは、そうした脱自的な(無)主体性を鋭敏にとらえた危機感の表明ではなかったか。踊りを拒絶する身体性もまた当然あることを顧慮すれば、そもそも共同行動に参加するものすべてを包括する主体性などないと前提せざるをえない。そのことは東京の初期サウンドデモが独自潮流として蹶起する理由でもあったではないか。一時的に異体を包摂する論理としてあったのは、「好きなように」せよということのみだ。だからサウンドデモでは、従来のシュプレッヒコールもまたデモが訴求する範疇のなかで自由にされるがままにまかせられ、あるいは自ら楽器を手にして自律的に音を押し出していく行為も存在したのである。そして事実として踊れない・踊らない人々も合流した。旗や横断幕の林立がその存在を示していた。このバラバラな主体は、デモが掲げる政治的・社会的スローガンがどうあれ、やはり総体としては社会変革を呼びかけてはいない。戦争協力とそれに付随する状況への「反攻」を身体をもって提示し、呪詛を放ったまでである。あるべき社会を具体的に提示しない(しえない)という意味ではそれは受動的行動、つまり「世直り」待望的行動である。しかし同時に戦争状況に逆流しようとし、また治安当局に締め付けられ、資本の論理が優先させられる街路を解放し、人々が摩擦しあう公共空間へと転化させようとする積極性において能動的という二面性こそが、反戦サウンドデモの根底的性質を構成した。サウンドはそれをつつみこむ外套の役割ももったのである。
 そしてこの分厚い皮膜のごときサウンドは、その強大さによってさらなる性格を帯びざるをえない。高石ともやはサウンドデモを捉えて「大音響と言うのは、それ自体が権力的で暴力的」と批判し、「思想性がない」とも言及した(『東京新聞』〇三年一〇月一三日)。前段の「暴力的」ということにわたしは同意する。しかしそれは大音響であるからではない。小音響・アンプラグド(アコースティック)であれば非権力的・非暴力的というのはまやかしだ。それがどういう音量・音楽であろうと気に食わんものは気に食わんという人間の好みのバラバラさを、高石は忘れたふりをしている。出来事はすべて、賛意と反発と無関心のそぶりを呼び起こすのである。音量の大きさはそのリアクションを増幅する装置にすぎない。そもそも私的所有権を設定する近代法理によって逆説的に私権を制限される公共空間を占め、私的所有者の権利主体たる他者に優先しようとすることの暴力性を自覚しない態度こそ無思想のきわみではないか。高石が自己称揚した六九年の東京・新宿西口のフォークゲリラは、空間を占拠し広場を構成する根源的に粗暴な力を発動したからこそ警察につぶされたのではなかったのか。人々と語り合うことができさえすれば非暴力だというなら、それはたんに力の性質を判断する指標として身ぶりだけを見て、あとは見ぬふりをする思想的怠惰にすぎない。
 〈われわれ〉が敢行したサウンドデモは、音声と踊りという輻輳する効果を街頭にいやおうなくうちこむことによって、野次馬と敵対者を即時的にうみだす「暴力的」姿勢をあらわにしていた。それは公共空間たる街頭に、歓喜と同時にとまどいと怒りを呼び起こす行為にほかならない。本来、私権に優先して公道を練り歩くすべての示威行進がこの性質をもっている。だから無前提・無規定なまま非暴力を絶叫し、ソフトさだけを売り物にしようとする社会運動の啖呵売はうさんくさいものとなるのである。そうして〈われわれ〉は「暴力的」行為=他者をおしのけて街頭へ登場することをあえて選択した。
 戦争に突入する国家が社会を締め上げるとき、これに抵抗する者の前にたちふさがるのはいうまでもなく暴力装置である。〈われわれ〉の暴力とは、体制の暴力装置=警察に対抗する「反動」の力の組織化にほかならない。しかしそれは実力行動はなやかなりしころの組織された大衆的暴力ではない。また軍事力・軍隊の獲得をめざす理念上の自称革命的暴力でもない。むしろ現象的には物理的暴力は一切ともなわずに、人を直接傷つけない・殺さない──「殺すな!」──限りにおいて「非暴力的」とさえいいうる営為をもって、警察力も含む敵対者と非参加者に対峙する集合的力動を一時的に構成したのである。しかしそれは強制的力という意味で非暴力ではない。あるものにとっての自律は別のあるものにとっては他律である。その意味で〈われわれ〉の選択は他者にとっての他律的な強制力への指向にほかならなかった。暴力と非暴力の相反する相貌は、あるひとつの力に現象するものである。人の力動がもつ双極性を固定的にとらえることは、政治権力が規定する秩序に与する事分けの論理に同化する手管となりうる。他者の訳知り顔の論評をかきけす「大音響」のサウンドデモは、そうした手管を拒絶するあまりにナイーヴでプリミティヴな熱狂への自己投企であった。
 Reclaim the Streets!あるいはサウンドデモは、一時的自律ゾーンをうみだすこと(空間の一時的占拠)によって人々に思考の契機をもらたそうとしたのではなかったか。突発的な契機のつきつけ=日常の異化は暴力的な「コト」である。そこにはシャリヴァリ(charivari)のような、他者にとっての厚かましさ・攻撃性があるが、その厚かましさ(迷惑)のなかに他者との交錯がしばしば目論まれる。祝祭がときとして叛乱の根源となる非日常=「ハレ」をもたらす集団的憑依の運動であるなら(祝祭それじたいは一つの秩序を形成するが)、サウンドデモは一時的にその「ハレ」を街頭に呼びさまそうとする意味において戦争国家への呪詛でありえた。結果を予測しきれない他者との交わりこそが、国家の一元的な状況管理に亀裂をもたらすからだ。しかしだからこそその契機の追求は一時的なものでなければならない。熱狂が常態化する時、それは容易に自省なき没我の全体主義の基体に転化するだろう。この行為のかりそめの全体性を戦争国家に回収され、体制翼賛の一部になりはてることは大仰に「解放」を意識する〈われわれ〉の本意では当然ない。〈われわれ〉の「戦闘」はあくまで戦争国家の秩序に対向するものでなければならない。だからこそ〈われわれ〉は時宜をえて敵前散開しなければならなかったのである。「飽き」と「疲れ」を表明する言葉は、包括主義・統一主義・全体主義への悪口となりえた。だが、〈われわれ〉は悪態をつきながらなんどでも集合する。
 初期サウンドデモは路上解放を一意に追求したが、そのなかで〈われわれ〉は全的な社会変革を夢見たというより、解放への熱をはきだすための、いわば前段集会を組織しようとしていたと思える。然れども集会いまだならず。ありえたのは集会ではなく行為の集合である。野合といってもよい。〈われわれ〉は多くをなしたつもりでいたが、「世直し」という意味ではほとんどなにもしていないに等しい。ただ各人が主体の訓練をそれぞれ繰り返したという事実だけがある。国家の戦争を阻止する社会、全人が人らしくありえる社会の追求を設定するならば、それは当然いまここの課題である。そのときデモは手段となるのか。
 もちろん、協働を前提とするかぎり、どのような行動であれ主体の練成の機会となる。その意味であらゆる行動に無駄はない。だから手段としてのサウンドデモはこれからもつづくだろう。しかし、ある行動の様式を手段としてのみ利用する機会主義のやがてくる破綻は不可避だ。本誌前号で、〇八年七・五の札幌サウンドデモの無残な崩壊を報告したとおりである。
 だからこそつぎのことを問わなくてはならない。定着をみたかのごとき現在のサウンドデモは、反復する抑圧とその抵抗のなかでいったいなにを夢見るのだろうか、と。

(1)たとえば、「サウンド・デモのやり方」(『NO!!WAR』、河出書房新社、二〇〇三年)、磯部涼「踊りつづけろ!サウンドデモレポート」(『クイック・ジャパン』51号、太田出版、二〇〇三年)、野田務+三田格+水越真紀「ダンス・トゥ・デモンストレーション」(『現代思想』二〇〇三年六月号)、イルコモンズ「ザ・サウンドデモ二〇〇三」(『情況』二〇〇四年三月号別冊、情況出版)、ALAKI+大島茂+KIhIRA NAOKI+シミズ+はンダーグラウンド+水嶋一憲+酒井隆史「踊らされるな、自分で踊れ 関西サウンドデモ座談会」、ECD+石黒景太+磯部涼+小田マサノリ+二木信「東京サウンドデモ会議」、二木信「祭りの余波はまだ続く でも…DEMO…、サウンドデモ」(『音の力〈ストリート〉占拠編』、インパクト出版会、二〇〇五年)など。
(2)RTS(Reclaim the Streets!)は衆を恃んで幹線道路などを占拠し、一時的な自律空間をつくりだす直接行動。一九九一年秋にブリクストンの Earth First! がロンドンで行ったのが最初とされ、またたくまに欧米各地に飛び火した。占拠空間にサウンドシステムを持ち込み、カーニヴァルさながらの喧噪を生み出す態様にはレイヴ文化からの影響がみられる。またモータリゼーション・環境破壊に抗議し、その根底に資本主義批判をもっている点で、イギリスのロード・プロテスト(road protest)の運動の系譜にあるといえる。過去の行動記録や現行情報についてはロンドンRTSのサイトを参照のこと。http://rts.gn.apc.org/ またその抄史と意義を簡明に述べたものとして、英ブライトンの『Do or Die』誌第六号に掲載された「Reclaim The Streets!」が参考になる。http://www.eco-action.org/dod/no6/rts.htm
なお、弾圧先進国のイギリスでは「刑事裁判および公共秩序法(Criminal Justice and Public Order Act)」が九四年に制定され、一〇〇人以上のレイヴは違法行為とされた。これを改悪した〇三年制定の「反社会的行為取締法(Anti-social Behaviour Act)」では二〇人以上で違法となり、またそもそも「反社会的行為」が幅広く規定されるなど、街頭行動がさらに締め付けられている。〇九年三〜四月の反G20行動はこのABAによって大がかりに弾圧され、ロンドンにあるスクウォット拠点 rampART が制圧された。
(3)二木信「奇妙な縁は、いつも路上でつながる──2003年以降の東京の路上と運動についての覚え書き」(『VOL』三号、以文社、二〇〇八年)
(4)日本における性的マイノリティのパレードの嚆矢は一九九四年開催の「東京レズビアン・ゲイ・パレード」で、九九年まで続いた。以後「東京レズビアン&ゲイパレード(TLGP)」が引き継ぎ、運営上の批判などの曲折を経て「東京プライドパレード(TPP)」に至っている。九四〜五年の東京のパレードに参加していた札幌の有志が九六年にはじめたのが「第1回レズ・ビ・ゲイ・プライドマーチ札幌」で、名称変更を伴いながら「レインボーマーチin札幌」として現在まで続く。大阪の「関西レインボーパレード」は〇六年からで、同年先行して「神戸ゲイパレード」も開催された。福岡でも〇七年から「クィアレインボーパレード」がスタートしている(「博多どんたく港まつり」に合流するかたちで練り歩く)。その他、立命館大の Gender Sexuality Project が〇四年〜〇七年にレインボーパレードを行っていた。
(5)JUNCHAN「パレードを飾った札幌イベントレポート」http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20060923B/index3.htm
(6)〇一年一二月九日開催。代々木公園での大規模なイベントを併設し、一〇〇〇人を超える人々が集まったとされた。報告は以下参照。http://worldpeace.s29.coreserver.jp/www.give-peace-a-chance.jp/news/20011210/ VIDEO ACT!反戦プロジェクトのウェッブサイトで動画が閲覧可能。http://homepage3.nifty.com/atsukoba/vact/war/main2001.htm
(7)以下にCHANCE!福岡の記録が残されている。http://chance.npgo.jp/ 「PeaceWalk&Rave」の動画がやはりVIDEO ACT!反戦プロジェクトのサイトで閲覧できる。http://homepage3.nifty.com/atsukoba/vact/war/yuji.htm
(8)正しくは「有事立法‐改憲阻止 反帝国際連帯 反戦闘争実行委員会」。共産同諸派や統一共産同盟などの反戦共闘枠。
(9)〇三年に「NO WAR EMERGENCY DEMONSTRATION」と銘打ってクラブイベントを行っていた。http://www.geocities.co.jp/MusicStar/1591/
(10)五・一〇については、本誌三号に掲載された中島雅一「捕虜と乱痴気──5.10 Street Rave Against War」がすぐれた報告となるだろう。当時デモに参加した仲間は一様に「あんな面白いデモははじめてだ」と興奮気味に話していた。同報告はウェッブ上でも読める。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/topics/prisoner01.htm
(11)「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」の制作過程についてはECD『いるべき場所』(メディア総合研究所、二〇〇七年)参照。この曲を公開頒布していたASCのウェッブサイトは現存しない。もともとASCのサイトはグラフィックデザイナー集団のilldozer(イルドーザー)が提供したスペースのもとにあったが、のちに某サーバがひきつぎ、ボランタリにホスティングした(救対DOPのサイトも同様)。そしてASCが動きを止めたのちサーバの都合もあって一度シャットダウンしてそのままになっている。弾圧の余波が及ぶかもしれないリスクをおしてのサーバ提供を見ても、ASCのサウンドデモは特定の人間だけに仕切られていたのではなく、さまざまな力によってこそ構成されていたのだということが理解されよう。
(12)関西でも通常のデモより警察の規制・介入が厳しいものとなったが、デモ主催者・参加者の士気が高くことごとく跳ね返したという。「ぐるぐる道頓堀」「アメ村右往左往」は http://us.geocities.com/tousousyouri/ を、「解放どすぇ〜」は http://gurugurudan.at.infoseek.co.jp/ を参照。
(13)対談「サウンドデモ」(首猛夫・矢場徹吾)http://d.hatena.ne.jp/posada/20090417
(14)京都のノンセクトなど(学生に限らない)の反戦運動体。〇四年五月に最初の「反戦反政府デモ」を敢行。二台のリヤカーをつなぎあわせたバンド山車が登場したのは七月四日の「小泉政権打倒 改憲阻止 路上解放デモンストレイション」。現在では「反戦と生活のための表現解放行動(反戦生活)」と改称しているが、課題分野を広げつつ活動継続中。http://hansen-seikatsu.hp.infoseek.co.jp/
(15)ヒデヨヴィッチ上杉のウェッブログより。http://blog.livedoor.jp/hideyo327/archives/9753901.html ヒデヨヴィッチ上杉はバンド「ジェロニモレーベル」「ファルソス・ヒターノス(偽ジプシー)」のメンバー。
(16)東京・京都・大阪からの参加が比較的多く見られたのは、主催者の多彩な人脈によるだろう。管轄の中署は機動隊や指揮官車を動員するなどしたが、慣れていなかったためか強引な介入はできず、終止デモ隊のペースとなった。http://www.geocities.jp/saluton_nagoya/
(17)貧乏人大反乱集団は「法政の貧乏くささを守る会」および「全日本貧乏学生総連合」(双方とも現存せず)のOBらが大学の外で立ち上げた「貧乏人」の運動体。「駅前鍋闘争」(駅前にこたつを出して鍋を食う)や「反クリスマス闘争」などで人を集めていた。現在は「素人の乱」の運動に重心が移っている。
(18)反戦落書き被弾圧当該とその友人たちが主催。デモ前の公園シンポでは六〇名近い公安に周囲をとりまかれ、デモは「許可条件」を大幅にはみだす四時間以上の長丁場となってヒヤヒヤしたが、無事貫徹した。http://a.sanpal.co.jp/1114/
(19)フリーター労組準備会が〇四年に行った新宿フリーターメーデーを継承したもので、フリーター全般労組や労組外の人々による実行委員会が主催。既存のメーデーとは異なり、未組織労働者など組織労働者運動の外部にある人々が集まることが可能な場となっている。なお〇六年より同メーデーはプレカリアートの自称をはじめた。http://www.geocities.jp/precari5/
(20)東京都杉並区(高円寺・阿佐ヶ谷)に展開するリサイクルショップ・古着屋・カフェ・ネットラジオなどの集合体。各店舗は独立経営でそれぞれ「素人の乱×号店」を名乗る。デモなどの社会的行動のイニシアチブをとるのはリサイクルショップ「素人の乱」(五号店)と古着屋「シランプリ」(一〇号店)の店主らで、零細商店主と雑多な「生活者」による地域運動という性格をもつ。が、その内容はたぶんに法政大ノンセクトの一潮流であった「貧乏くささを守る会」のノリをひきついでいる。なおPSE法(電気用品安全法)問題は、一部リサイクル業者や消費者の反対運動と輿論に直面した経産省が旧来製品の販売規制を事実上撤回して決着をみた。
(21)東京の一部のノンセクトがはじめた年一度の反戦集会・デモ。当初の提起者は「戦争抵抗者の会」だったが、反戦運動の消長にともない同会は消滅。このフェスタがサウンドカーを使用しはじめたのは〇六年からで、それまではリヤカー型のサウンドシステムやドラム隊(ギター、ベース含む)などが随伴した。
(22)名古屋サウンドデモの申請経過については、水田ふう「デモ申請始末記」(『風』第四〇号)に詳しい。愛知県警の予防弾圧的な締め付けに対し、公然運動を成立させるぎりぎりのところでよく対抗したと思う。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/archive/kaze40.htm
(23)一二名の刑死者を出した大逆事件が社会に衝撃を与えたことは間違いない。しかしそれで民衆運動が鳴りをひそめたわけではなく、「冬」の概念は主義者・知識人に限定される。明治維新後の士族反乱、新政反対一揆、自由民権運動、負債農民運動などが藩閥政権につぶされたのち、代わって登場したのが日清戦争後に急速にひろまった先駆的労働争議や都市暴動であった(一八九八年日鉄機関方スト、一九〇五年日比谷焼討事件、〇六年東京電車焼討事件など)。東京の電車値上げ反対運動には社会主義者も合流したが、その主義者があいつぐ弾圧によって沈黙を余儀なくされてからも、労働争議や都市民の「騒擾」はなくならなかった。たとえば欧文植字工組合欧友会は、印刷資本側のシンディケート(サンディカ)ともいうべき東京印刷同業組合に対抗しつつ粘り強い交渉をつづけ、一〇年七月には都内の基幹的な印刷企業数社とクローズドショップ(ユニオンショップ)の仮協定を締結した。これは団交権そのものを俎上にのせた闘いの先駆である。また欧友会は翌一一年七月に築地活版での労働争議を闘い、若き会員の金子清一郎が治安警察法第一七条違反で逮捕・起訴された(判決は無罪)。一四年には、名古屋電鉄の運賃値下げを要求する雑多な都市民が主力の電車焼討事件が勃発した。さらにいえば、一八年の米騒動は「冬の時代」終幕の突破口、あるいは大正デモクラシーの幕開けと位置付けられてきたが、名電焼討などの騒動をあえて無視する以上、そうした見方は民衆胎動のエネルギーをロシア革命以後に求める赤色事大史観にすぎない。そも、米騒動の発端は前近代的な「百姓」(漁民の妻女や仲仕たち)の伝統的連帯の論理によったもので、その共鳴の作法が底流としてひろく社会に沈殿していたからこそ、騒動はマチとムラの雑民を主体とする全国的な「騒擾」として爆発した。輸入されたデモクラシー論はいざしらず、底辺民衆の「民主主義」は行動の連なりのうちに現れつづけていたのである。なお、欧友会の後身である印刷工組合信友会は東京に米騒動が伝播するのを見て、「眠れる者は印刷工のみ」とアジビラに絶叫しつつ博文館争議を準備し、都市暴動を追いかけようとする姿勢を見せたとたんに弾圧されている。一〇年代の底辺民衆/労働者運動は権利主体としての近代的個の論理をつかみつつ、同時に一揆(同志的結合)という前近代的な共同的自己像になお執着することで、行動の論理を体現したといえよう。
(24)日本最初の労働者のメーデーは、信友会、友愛会など在京労組が中心となって挙行された。二日に開催されたのはその日が日曜日だったからである。準備資金には堺利彦が管理していた幸徳秋水の『基督抹殺論』の印税があてられたが、その根回しに奔走したのは信友会中のアナキスト水沼辰夫である。なお水沼と阿部小一郎は、会場に向かう途中に組合旗をなびかせながらビラをまいたために検束され、立役者であるにもかかわらずメーデーに参加できなかった。結局二人は散会後の夕方四時半頃釈放された。またメーデーは当初(組合ごとの)分列式と集会だけを予定し午後四時には散会しかけたが、「友愛会の松岡氏」(『時事新報』四日付、松岡は松岡駒吉)の二人を取り戻そうとの緊急動議がきっかけとなって参加者は自然発生的にデモになだれこんだ。そのため上野公園から万世橋にいたる間に何度も警官隊と衝突し、二人が外神田署に検束された(夜半釈放)。なお、一九二〇年以前にも平民社メーデー茶話会(〇五年五月一日)や山崎今朝弥宅でのメーデー記念集会(一七年五月七日)があるが、労働者の集団示威には数えられない。またメーデーの先駆として労働者大懇親会の運動が位置付けられることもあり、こちらの方が集団示威的だ。最初の大懇親会は、反政府系新聞の二六新報が片山潜らと協力して〇一年四月三日に東京向島の白髭神社境内で開催したもので(二万人以上が参加したとされる)、この動きは各地に波及して東京同様に反政府系新聞が呼びかけている。たとえば、東京の大懇親会を受け五月五日には北日本新聞社主催の函館労働者懇親会が開催された(『函館市史』)。東京ではこの反政府系新聞と初期社会主義者の合作運動に対する官憲の干渉が当初から厳しく(五〇〇〇人規制の恫喝あり)、翌〇二年東京の二六新報社主催の大懇親会は事前に禁圧され、これをひきつごうとした労働組合期成会の集会届けも警察の禁止命令でつぶされた。
(25)メーデー歌といえば大場勇作詞のもの(一九二二年)が有名だが、二〇年の最初のメーデーでは日本教員組合啓明会の下中彌三郎が作詞したものが歌われた(中野光『教育改革者の群像』)。
(26)友愛会─総同盟初期の穏健派幹部の一人。一九二一年には賀川豊彦とともにに川崎・三菱造船所大争議(神戸)を指導し、翌二二年労働文化協会を設立した。柳条湖事件(満州事変)後に国家社会主義に転じた。
(27)一八九二〜一九六六年。戸籍名・辰。印刷労働者運動の先覚の一人で、欧友会─信友会の組織化に尽力。一〇年代から北風会(東京労働運動同盟会)に交友して労働者中のアナキストとなり、関東大震災後の労働運動の転換期にも一貫して改良派とボルシェヴィキに対抗した。純正アナキストとサンディカリストの分裂時には純正派に属したが、組合運動を軽視していたわけではなく、戦後には研究社の争議(四七年)で組合委員長として闘っている。欧文活版の優れた技術者としても知られ、『欧文植字』(印刷学会出版部、四九年)、『文選・植字の技術』(印刷学会出版部、六一年)の著作がある。職歴は秀英舍・ジャパンタイムス社・ジャパンアドバタイザー社・三省堂・研究社・竹内欧文製版所。
(28)intellipunk「クリスマスより自分の踊りを踊れ」(http://www.rll.jp/hood/text/intellipunk/20081226151227.php)、塩見孝也「「自由と生存のメーデー2009」報告」(http://homepage2.nifty.com/patri/column/2009-05-06_mayday.htm)など。
(29)宮田登『近世の流行神 日本人の行動と思想17』(評論社、一九七二年)