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  • noiz 13:10   30/05/2011 パーマリンク | 返信  

    デモは迷惑で上等だの辞 

    デモは迷惑、してやったり。デモ参加者以外をおしのけてまかりとおるのがデモなんだから、デモの主張に賛同する人が応援してくれたとしても、政治的・社会的なデモが異端扱いされる息苦しい社会(というより世間の連合)にあっては、賛同者以外の人たちに迷惑と思われないほうがどうかしている。でもだからこそやるんだべ。賛同、反対、困惑、無視のフリなど遭遇者からあらゆる反応がかえってくるところにこそ街頭行動の真髄があるわけなんだから。八方美人的にみんなに支持されなきゃヤダとか、デモに文句たれるのがおかしいとかって思うほうがおかしい。人をあくまで愚かな操作対象と眺めるマーケティング的思考にとらわれているからそういう発想になるんじゃねの。しかもそれって全体主義の心理的基層を準備する論理でしょ。「左翼」的なものがいやなら「左翼」排除を呼号するデモを自分でやればいいだけ。でも、異論をどうしてもたいらげたいという自分のなかにある征服欲と格闘しないで社会を変革しようなんざ自己愛もすぎる。社会運動って、じつはてめえの心の奥底に巣食う愚民観との格闘なわけですよ。デモは迷惑だという他人の真実を「左翼」のせいにして居直らずに、街頭でまきおこした違和感なり軋轢なりをそれぞれもちかえって反芻し続けてゆく必要がある。これはわたしみたいに口先だけでいっても意味のないことで、とても難しいことだと思ってはいるのですが。

     
  • noiz 12:10   26/05/2011 パーマリンク | 返信  

    全国環境放射線モニタリングを遂行する「放射線・原子力教育関係者有志」がいうように、政府が地表から高い位置で放射線量を計測しているのは目的が異なるからにちがいない。であればなおさら短期的に留意すべき情報として、地表近くの「有志」モニタリングへの注意喚起をはかるのが為政者の“あるべき態度”といえるのかもしれない。だが被治者が統治者に“あるべき態度”を期待するほうがまちがっている。支配者は治安維持の一環として情報の統制と操作を行うのがあたりまえだからだ。被治者たるわたしたちは、そこでは潜在的な治安の阻害要因でしかない。ようするに被治者は統治者と共有するものはなにもない。だからこそわたしたち被治者は治安の自主管理ミュータントとなるべく、みずからをつくりかえる必要がある。これは放射性物質によって「汚染」されつづける東日本における革命的群集への途である。

    これから、海から陸にむかって風がふく季節をむかえようとしている。

     
  • noiz 21:26   22/05/2011 パーマリンク | 返信
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    21日 大MAGROCK 延べ200人
    22日 大間原発反対現地集会 延べ250人(集会終了後、野外ロックフェス続行)

    ※人数訂正済み

    会場はなんと炉心から300mほどの場所に位置し、電源開発が建設計画を一部変更するまでは50mだった未買収地! 炉心近くに反対派の土地があることといい、フルMOX燃料計画といい、大間原発は世界にも類例のないおそるべき原発である。だが建設はまだ37%しか進んでいない。民主党・岡田は12日の記者会見で、「あと2年くらいで動かすという想定で、かなり出来上がっている。やめることを考えるべきではない」(時事通信、強調引用者)などと植民地長官気取りでほざいたが、あからさまな虚偽である。このように利権の尖兵たる政治屋はどんな状況であっても空気を吸うようにどす黒い野望を語る。地獄行き必定。

     
  • noiz 21:58   06/05/2011 パーマリンク | 返信
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    救援と「事実」 

    たとえば警察が「ステ貼り=軽犯罪」をデッチアゲるとする。デッチアゲはデッチアゲとして糾弾するのは当然としても、「ステ貼り」の「外形的事実」にかかわる情報を外からことこまかに追認するのは、場合によっては警察が強弁する「治安警察活動の適法性」を補強してしまう可能性があるんじゃないだろうか。いうまでもなく、あちらの論理では釈放=無罪じゃない。「微罪」ということにしておいて、勾留・起訴せずにパイするけどいつでもむしかえせるんだってな案配は、むしろ刑事事件一般における警察・検察のやり口としてありふれてる。逮捕された「ステ貼り」当事者は勾留もされずに即日釈放されたのだから、「ステ貼り」当事者に限ればたしかにむしかえしの可能性は低いだろう。でも、「ステ貼り」弾圧を阻止しようとして「公務執行妨害」でもってかれた別人が起訴前段階の被疑者としていまだに代用監獄に留置されてるんなら、やっぱり「公妨」に連関する「ステ貼り」の「外形的事実」情報を急いで追認しなくてもよかったんじゃないかと思う。

     
  • noiz 15:31   08/04/2011 パーマリンク | 返信
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    Protest and Survive (Discharge) 

    The savage mutilation of the human race is set on course
    Protest and survive, protest and survive
    It’s up to us to change that course
    Protest and survive, protest and survive

    残忍な人類損壊は既定方針
    抗議して生きのびろ
    この方針を変えられるかどうかはオラたちしだい
    抗議して生きのびろ 抗議して生きのびよう

    YouTube

     
  • noiz 11:46   08/04/2011 パーマリンク | 返信  

    奴隷の自由 

    自由市場礼賛派は電力自由化を叫ぶべき季節を迎えている。日本の電力産業は国家官僚・政治屋・独占資本(政商)の談合の産物であるから、原発事故を嘆いてこれを撃たない自由市場礼賛派はイカモノである。戦中戦後の「日本株式会社」を資本主義の皮をかぶった日本型社会主義とする見地もあるが、むしろかかる少数談合による支配こそが資本主義のカナメである。国家官僚・政治屋・独占資本が結託してつくられた戦時体制の強力な残滓こそが日本資本主義の核にある。この国家資本主義のもとでは「自由市場」のものいいはおためごかしにすぎない。

    電源開発が国策であるのは「富国強兵」「殖産興業」の「昭和」的再編によるものであり、電力資本の過度な乱立・競争がめだった日本近代の粗野な資本主義は、集権的修正によって国家総動員型資本主義へと転位した。1931年の「重要産業ノ統制ニ関スル法律」制定いらい、日本資本主義はつねに戦時型国家資本主義(国家「革新」官僚が領導する資本主義)であった。

    ・昭和14年度交通電力動員実施計画綱領ニ関スル件
    ・昭和15年度物資動員計画ニ関スル件
    ・昭和15年度電力動員計画綱領ニ関スル件
    ・昭和16年度電力動員計画綱領ニ関スル件
    ・昭和18年度電力動員計画ニ関スル件
    ・科学技術者動員計画設定ニ関スル件

    以上はすべて戦時下の電力動員にかかわる閣議決定の実例だが、いうまでもなく総動員体制を血肉化する指令として猛威を振るった。共産主義を蛇蝎のごとく嫌った日本資本主義は他方の混合経済のみちを驀進した。統制経済といってもよいが、それは国家官僚・政治屋・独占資本の少数者集団だけが享受する自由の経済であり、この少数者集団の外にある者たちにとっては統制された経済にほかならない。

    戦後、総動員体制は「重要産業」の「復興」の土台として機能させられた。もちろん電力産業もこの例外ではない。

    資本主義とは自由主義ではない。あるのは市場の自由ではない。国独資の自由と、その支配のもとで保証される奴隷としての自由だけがある。そんな自由はいらない。わたしに必要なのは国家官僚・政治屋・独占資本からあらゆる特権を剥奪する力動である。

     
  • noiz 02:25   19/03/2011 パーマリンク | 返信  

    東京にいれば逃げたことにならないと思っている人々のオメデタサを呪う 

    東日本に居残る人間が西日本に逃げた人間を非難する。それはそれでなにか大変な病理のあらわれではないかというような気もしている。

    もちろん勝手次第の暮らし方をふまえるなら、少なくともテメエひとりは居住地以西に「逃げない」ことを前提しようと思っている。しかし今さら電力利用の自粛なんぞクソクラエで、わざわざ節電してまで非常事態における為政者の統治実験につきあう道理もない。停まるなら停まれ。列車を止められれば歩くだけだ。けれどもこれは歩くことのできる人間のあくまで個人的な当為にすぎぬ。そしてこの「逃げない」もまた、本当は逃げ続けのテイタラクをごまかす綺麗ごとにすぎぬ。原発ご当地から逃げ続けるテイタラクである。

    しかし女であれ男であれそのどれでもないであれ若造であれ老いた者であれ、逃げて悪いことはない。どのような電力(電力企業)を選択できるのかの局面において人はあらかじめ自由を奪われているからである。歴代与党の国会議員と国家官僚と政商こそが電力(電力企業)選択の余地を狭めてきたことは今さらいうまでもない。

    地域独占の制度的保証という特殊な構造のもとで温存されてきた電力事業と、そうであるがゆえにつくられてきた利権の自作自演システムをそのままにして、政府や電力会社への攻撃を諦めさせようとする翼賛者たちはまさに体制の走狗にすぎない。未曾有の国難と口走れば人を黙らせることができると思っている愚かな走狗はやがて煮られる運命にある。煮るのはわれわれである。国滅べど人死なず。走狗、国なくば煮らる。

    それにしても、福島やその他の原発建設地の人々からすれば、原発のない街に暮らす人々はすべて同じ逃げている人間にしか見えないだろう。外部におしつけることもまた逃亡であるなら、恐怖と不安にかられて逃げ出した人々を非難する資格は、少なくともこの大電力消費地である東京の人間──野宿労働者を除いて──にはありはしない。これまたいわずもがな、東京には原発はただの一基もない。そのかわりに皇居(江戸城のなれのはて)がある。

    「きみらはさぁ、東京で電気使うばかりなんだからたまにはこっちにこい」(反核燃の日を前にして)。六ヶ所の核燃料サイクル施設──震災の影響で非常用電源に切り替わっている──の建設・運転に反対してきた友人のことばが今になって大きく響く。これは残響ではない。このただいまでも、たとえば東京人は原発や核燃料施設から遠く「離れて」=「逃げて」いるのである。

    居残り組が居丈高あるいは声高にトンコ組を非難しているのをみると、〈原発のない街に暮らす=原発のある街に暮らさない〉という自らの選択についてかえりみることはないのかと悲しくなってくる。

     
  • noiz 23:29   21/02/2011 パーマリンク | 返信
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    Japana reĝimo ne estas “demokratismo”, sed estas imperialismo dependa usono 

    Februaro 20 polica subpremo en anti-milito/anti-militbazo protestantoj proksima al la usona ambasadorejo en Tokiokelka fotoj

    Japana gardo-polico kaj sekureco-polico estas la kortohundo de usona imperialismo, kaj polica-polico protektas kapitalista reĝimo. Japana reĝimo estas por kapitalismo/imperialismo kaj la regantoj dependas usono… frakasu ilia regardo.

     
  • noiz 14:49   20/12/2010 パーマリンク | 返信  

    東京都表現規制条例に反対する運動をめぐって2010年12月14日以降に発言したことへの自己批判 

    東京都の表現規制条例に反対する運動をめぐって、12月14日以降にいくつかの発言をしてきました。ごく大雑把にまとめると二点あります。

    一つは、「女性表現者の会」のロビー活動に際しての肩書きの使い方について無責任だとする言及です。同会の主張内容にはふれずに、会の特定個人の振る舞いかただけをとりあげて批判的に言及したものです。

    二つは、前述の個人について、まったく別件を持ち出して信用ならないとする発言です。こちらは当事者をとびこえるかたちでの言及であり、つまり「問題」と見立てたことについて同志的な態度で解決をめざそうとするのではなく、あくまで個人的な不信感の表明に終始したものです。このため、自らの行為を利用主義と規定していました。

    一点目については、戦術批判めかして行動そのものに難癖をつけるかたちになっていることを、まずもって反省しなければならないと考えます。もとより誰がどの時点で反対運動を行おうがまったくの自由です。遅きに失していますが、「女性表現者の会」のロビー活動のありようのみを捉えて流布された「政治ゴロ」との罵言にのっかるかたちでのみ発言することそのものが、同会が主張する「表現」にまつわる性差別問題の提起を無視するだけでなく、同会の活動に対する差別的反発に付和雷同するものであったと認識します。端的にいって性差別の追認です。そしてそのことをまず自己批判したいと思います。

    つづいて二点目として、とるべき手続きをとらずに条例反対運動とはまったく関係のない別件について放言したことをお詫びしなければなりません。こちらは代理糾弾だと認められることだと思いますが、当事者の意図をうけての発言ではありません。まったく個人的に行ったものであり、特定個人や団体の意を受けたものではありません。他人について不信感なりを持っているのであれば、直接話をする機会をもつなどして、共通の理解がえられるように努力して解決に向かえばいいところを、そうした手続きをとらない、いかにも拙速にすぎる独善的な行動でした。この件に関して名指しした根来祐さんと関係者にお詫びするとともに、上記の認識を明らかにすることをもって自己批判とします。

    なお、これまでに直接の連絡や、当ブログへのコメントというかたちで明示的に批判をいただいていますが、インターネット上で批判・意見をさらに寄せられる場合はこちらの記事に宛てていただければ幸いです。応答すべきことがあれば、継続的に表明していきます。

    以上です。

     
    • やねごん 01:30   24/12/2010 パーマリンク

      noizさま。
      はじめまして。
      http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20101223#p1
      このたび、わたしもふくめた3名が呼びかけ人になるかたちで、このような「共同声明」をださせていただきました。
      なんでも、noizさまは「仁義」について一家言おもちのようなので、直接あいさつにうかがった次第でございます。

      それにしても、他の呼びかけ人とは関係なく、わたしの個人的な感想として記すのですが……。「内実の調査もせずに『悪い噂』をいいふらしていた人間がいたとすれば、ふざけんなクズ、てめーがやってみろと詰めるしかありません。それで攝津さんは裏をとろうともせずに『はあ』とかいっているんですか。それで恥ずかしくないんですか」(13:13 on 18/12/2010)とまでおっしゃっているnoizさまの「自己批判」の内実がこのようなものになったことが、素朴に不可思議でなりません。2ちゃんねらーならば、「オマエモナー」とつっこむところではないでしょうか?
      まあ、わたくしは、あなたの「自己批判」にどうこう言う立場にないし、そもそも「自己批判」に他者が関与しようとすること自体、おかしなことだし、危険でもあるという気がいたします。ある種の左派がこのんで語りたがる「自己批判」なるお題目の空虚さを目撃しえたようにもおもい、たいへん興味ぶかい経験をさせていただいたと感じております。

    • 不逞女子 15:13   24/12/2010 パーマリンク

      「ある種の左派が好んで語りたがる」またレッテル貼りのくりかえしですか。やねごんさん、あなた昼間とたいして変わらないですね。

      noiz氏の自己批判(他にどう言えばいいの?)、支持します。名前のあがった当事者が誰一人きちんと弁明も抗議も謝罪もしない中、はっきりと認めるべき非を認めたのはnoiz氏のみ(にみえる)

      やねごんさん、声明に、東京都や推進派、反対派もたとえば山口弁護士ブログなどを参考として挙げないのはなぜですか。事実上のnoiz氏・よねざわ氏(この方の発言は支持できないが)吊し上げにみえます。
      まったくもって「オマエモナー」です。

      noiz様、コメントらんお借りしすみません(はてなIDめんどくせ)

    • noiz 09:48   25/12/2010 パーマリンク

      声明のお知らせ、ありがとうございます。

    • noiz 09:48   25/12/2010 パーマリンク

      コメント欄はどうぞご自由に。

    • 攝津正 18:58   27/12/2010 パーマリンク

      自分はグリルドチーズ願望さんの意見に賛成です。
      http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20101224#1293142102

  • noiz 14:08   12/12/2010 パーマリンク | 返信  

    「行動する保守」の動向から見えるもの 

    「行動する保守」の先駆者は西村修平だとする言説がある。しかしそれは正確ではなく、2001年8月5日に「あいふる」ら自称2ちゃんねらーが「不当な内政干渉に抗議するデモ行進」を敢行している。教科書検定問題で韓国は口を出すなという主旨のデモだ。当時の西村がどうしていたかといえば、7月7日の横浜での反戦集会妨害で刑事告訴され、11月14日にはパクられている。その後の曲折が響いたのか、西村がデモの着想をまねるのは4年後のこととなる(中国における反日暴動への抗議デモの組織者の一人として)。

    2001年当時、「ネトウヨ(ネット右翼)がついに街頭に出てきたか」との感懐と警戒心をもって「内政干渉抗議」デモを注視していた人は少なくない。わたしの周囲でも「ネトウヨ」的なものの街頭への表出と影響を警戒していたが、「あいふる」らは背景もほとんどなく(ただしデモには古賀都議が「来賓」として参加)単発で行動を終えているため、この当時の行動は社会的な反響をバネに自らを激化させることはなかった。現在のように「行動する保守」のカルト化をさまざまに指摘する顕名的な観察者も輩出しなかった。ただ2ちゃんねるの関係スレッドで観察する人々が若干報告を寄せていただけである。

    小泉純一郎に刺激されて発生した「靖国オフ」(2002年)なども同様の動きと捉えるなら、「行動する保守」的な機運はすでに21世紀初頭から胎動していたといっても過言ではない。いや、インターネット上の機運だけを数えるなら90年代末からというべきかもしれない。それはともかく、「オフ」つまり路上に見えるかたちでの動きとしては、2005年にも「杉並区歴史教科書採択騒動」でやはり自称2ちゃんねらーが集団で登場している。つくる会の教科書採択をめぐって反対していた人々のなかに「中核派」がいるとして、カウンターの「オフ会」が呼びかけられ現実に街頭にあふれでてきたのだ。あるいは台湾の李登輝が来日するたびに動く「歓迎オフ」も、思想心情はともかくとして類似する行動心性をもったものと数えられるだろう。そしてそれらの行動がインターネットを媒介項とする緩やかな談合に依拠していたことは、現在の「行動する保守」の特質にも通底する。

    「ネットからオフへ」を唯一の紐帯の論理とする「ネトウヨ」的人々の行動は、いまようやく10年を迎えようとしている。しかし現在の「行動する保守」には検討に値する運動論・組織論はなく、単に悪質なデマを喧伝して一定の吸引をくりかえすことしかできないアジテーターがいるだけだ。もちろん自己言及的な動画の公開を武器とする宣伝戦の手管には長けてはいる。だが「自分たちを見てくれ」という戦術があるだけなのだ。だから一度暴発するととどまるところをしらず、「反弾圧」の観点もなく敵対者と見なしたものへの襲撃も簡単にやってしまう。それも集団となってはじめて攻撃性を発露するところに、集合する心理の強さと弱さが表れている。

    ともあれ、運動体がかかえる問題点を洗い出し、また社会との関係を検討しつつ内部改革をくりかえしていこうとする視点が「行動する保守」にはない。したがって集団としては謀略論や「弾圧」にめっぽう弱く、いったんことが起きるといくつかの団体どうしで、あるいは団体内部で対立をはじめる。「組織者」にそれだけの「組織」実践しかないため、運動に被逮捕者が出たりそのために対立が生じたりすると、潮目が変わったとばかりに行動の参加者層もあっさり乗る船を変えてしまう。「行動する保守」が落ち目なら、田母神俊雄らの「頑張れ日本」でいいやとでもいわんばかりに人々が移ろいゆく。だから「行動する保守」の運動はまるで一過性の流行病のようにも見えてくる。自分たちは少数派であっても「活動家じゃない一般市民(もくしは国民)」という裏返しの事大主義が参加者層の最大のよりどころであるため、定見もなくくっついたり離れたりするのも必然だ。また運動主体として自らを客体化しようとする視座は皆無だから、落ち目になると「組織者」層のほうではさらなるカルト化と分裂が進行する。

    「行動する保守」運動が一過性のもののように見える概況は、やがて在特会、主権会、排害社のような極端な連中はほっておけば自滅するとの観測に根拠を与えるだろう。だが、身にまとわりつく「世間」をかなぐりすてて声高に叫ぶことのできるだけの根性をもつアジテーターやデマゴーグが出てくれば、差別によって自らを慰める悲しき人々が吸い寄せられ、物理的に表面化する状況は断続的にでも続くにちがいない。個々の「組織」に消長があるとしても、差別と排外主義は社会に内在するものだからだ。「保守」となざされる曖昧なものはむしろ隠れ蓑にすぎない。

    今さらいうまでもないことだが、差別と排外主義に反対する「われわれ」に問われるのは、この差別者の群れとどう「対話」しつつ「対決」していくのかの長期的戦略だろう。桜井誠や西村修平が「運動」からいなくりさえすればいいという問題ではない。差別者との「対話」と「対決」は、同時に社会に内在する隠然とした差別に向かうものでなければならないはずだ。では具体的にどうするのか。情けないことに、わたしは答えを持っていない。

     
  • noiz 12:50   07/12/2010 パーマリンク | 返信
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    刑事告訴と公安警察のあやうい関係 

    思想信条いっさい賛同できないけれど、まきやすともが今回の件に限定して発言した「在野における政治闘争において警察権力を介在させることは避けるべきである」との主張はまったくそのとおりだと思っています。逮捕という「刃」がもつ危険性についての認識も。警察に頼って敵対者を逮捕させたから勝利と慢心するのでは、いつか自分たちも痛い目を見る。警備公安警察にとっては「左右」関係なく「デモなんかやるやつぁ潜在的犯罪者」でしかないので、カマトトぶっても意味がない。「右」「保守」側の人々のなかで「公安も認める国士様」という自己・他者認識があるとすれば、それは甘えによる虚妄にすぎません。それは逆側の立場にもいえる。「公安に目をつけられる活動家」なんてなんの意味もありません。

    観察者の皆さんは在特会デモへの抗議者による「怪我をさせられたから被害届を出す」「反撃」を期待しているようですが、そう簡単にことは運ばないはずです。被害届を出せば警察と一定同伴せざるをえない状況がうみだされ、そのなかで公安警察の情報活動が行われていくからです。敵対者を刑事告訴すれば自分(たち)にも向けられる情報活動だけを防ごうというおよそムシがよすぎるアクロバティックな任務が要請される。警察との一定の関係構築が自分ひとりですめばいいが、公安の活動は間接的にではあれ必ず周囲におよぶ。かれら公安警察=政治警察の任務は運動主体の破壊だけでなく、協力者(スパイ)をつくりだし、運動そのものをコントロール下におくことなのですから、当然ちゃ当然のことです。コントロールできないものはまるごとの破壊をもくろむ。かれらは刑事警察と違って「犯罪」の取り締まりを一義的な任務とはしていません。マッチポンプで政治「犯罪」をでっちあげておいて、それを予防するふれこみで広範囲に情報収集をしていくことが基本にあります。したがって、敵対者を逮捕させれば勝ちというような公安警察・公安検事だのみの態度でははっきりいって自律的な闘争などできないということです。「活動家として」ならば、公安からのプレッシャーのもとではむしろ釈放後のこれからが正念場なんですよね。

    去年の8・15で右翼に怪我をさせられた活動家も、結局は刑事告訴していません。それは上記したような警察との連携がもたらす弊害を回避するための選択の結果だといえるでしょう。これは「権力」とのあいだに一定の線をひこうとする活動家の論理であって、一般にはおよそ理解しがたいことかもしれません。しかしとりわけ公安警察の動態を把握すれば、連中とはかかわりあいになるような事態を避けるのが一番だということが分かるはずです。文書流出という警視庁の外事の連中がさらした失態によって、公安警察の情報活動がどれだけ広範囲かつ粘着的であるかは、多くの皆さんも分かっていることだと思います。

     
    • オチャ 00:17   09/12/2010 パーマリンク

      これが本当だとしたら、「活動家」の方には反在特会の「直接活動」には絶対出て欲しくないですね。
      なぜなら、彼らを真に追い込むには「警察沙汰」が最も効果があり、かつ唯一の方法でしょう。
      警察の介入を避けなければいけない衝突を発生させれば話がややこしくなるばかりだからです。
      場合によっては「利敵行為」になってしまいます。
      「行動をするものが唯見ているだけの者よりエラい」というおごりは通用しません。

    • noiz 02:27   09/12/2010 パーマリンク

      「警察権力」とは一線をひいて活動する人々の一部は、在特会のような腐れ外道どもに的にされる対象によりそうかたちで「監視」と「防衛」にまわっています。「反在特会」の単独行動ばかりが「報道」されるため(「ネットの報道」)、なかば状況に規定された地味な活動は観察者の目にはつかないのでしょうけどね。

      しかし対抗の「直接活動」のなにが悪いのでしょう。いまのところ、刑事告訴にもちこむようなカウンターの行動はでてきていません。もちろんそうした「活動」は在特会のようなグループを即座につぶすことにはつながらない。でも、差別に蹂躙される人間が対抗行動にでることを阻止する「特権」は誰にもないと考えます。オチャさんの民族的出自は存じ上げませんが、少なくともわたしのような日本人にそのような「特権」があろうはずがないと思うのです。ただし、ここでいう「特権」とはカウンターの行動を阻止することであって、戦術批判をするなということでも、相手が被差別者だから拝跪しろということでもありません。ああいった単独行動は、当人がツイートしていたように相手あってのことだからぼこられるのは目に見えていたでしょう。ではなぜその行動阻止の「特権」がないというかといえば──在特会などのグループをうみだしてきたのはほかならぬ日本人の社会だからです。

      被差別者ではなく、日本人が対抗や抗議の「直接活動」にでるとしましょう。同じくそれだけで在特会などの諸グループをつぶすことはできない。けれど、差別と排外主義を批判するカウンター/プロテストの存在を社会的に示すことそのものにさえ意味があるのではありませんか。単に在特会やその他の差別者集団が社会の外部に存在するなら、どんな手段を使ってでも叩きつぶせばそれですむのかもしれませんが、わたしは差別者グループはこの社会に包摂された存在、というよりもこの社会がうみだした存在と捉えているので、対抗/抗議行動は無意味ではないと思っているのです。

      もちろん、オチャさんが心配するような危険性(「利敵」状況の導出)は対抗/抗議行動につねにつきまといます。わたしはその場にいなかったのですが、例の蕨の事件がそのことを如実に示したと思います。ここでもやはり戦術批判を封じ込めることはできません。しかし在特会連中に口実をあたえてしまったあのドタバタのカウンターでさえ、無意味とすることはできないと考えます。そのことで連中が使えたいいがかりは一過性ものにすぎませんでしたが、対抗行動はさまざまな課題を残しつつも、「このままにしておいてはいけない」という一定の機運をあとにつくりだしたからです。それがたとえオチャさんの望むような方法にそうものでなかったにしても。

      オチャさんは、在特会を追い込むには「警察沙汰」が最も効果的で唯一の方法だとおっしゃいます。現実に存在するグループをつぶすには、なるほど警察や司法の力を導入するのがてっとりばやいのかもしれません。でも、それまでです。あるグループがつぶれても、それでそれまでそこに集っていた人の存在までまるごと消えてなくなるわけではありません。だから「警察沙汰」だけで、差別者が群れをなして再生産をくりかえしてゆく状況を根本的に変えられるとは、わたしにはとても考えられないのです。では、どうすべきなのか。それは単に行動によるだけではなく、あらゆる局面で対抗の力をつくりあげていくしかないと愚にもつかないことしかいえません。

      追伸
      この記事が「行動をするものが唯見ているだけの者よりエラい」といっているように読めたのだとしたら、本意ではありません。街頭にでて行動することだけが唯一の行動ではないからです。言論活動だって当然重要です。あるいは観察しておかしなところを指摘していくことも。けれど「警察沙汰」ともなれば、こればかりは自分を安全圏において他人にやれというわけにはいかない方法論です。自分ではやりもしないのによくも「唯一」の方法だとか吹聴できますね。自分ではない誰かがやってくれるのをただ待っているというわけでしょう? おごってるのは誰だって話ですよそれ。

    • noiz 10:42   09/12/2010 パーマリンク

      しつこくそもそもの話をします。観察者を自称するにはあなたはどうやら精進がたりないように思います。在特会がいいか悪いかという価値判断よりさらにふみこんで、連中を追い込みたいらしい願望をむきだしにしているからです。オチャさん、オチャと名乗りながら舞台にあがっているじゃないですか(笑)。もともと(観察者としての)「共産趣味者」でもあるわたしにしてみれば、これからも観察と報告がんばってくださいというしかありません。すでに書いたことですが、観察にも重要な役割があるからです。人は間違いやすい存在ですから「外野」からの冷静な分析と批判はやはりたいせつなもの。まあでも純粋観察者の立場ってありうるのかなーと疑念持ってるんですけどね。

    • noiz 11:16   09/12/2010 パーマリンク

      ツイート見てまわったんですが、なるほどそういう話になっていたのか。「絶好のチャンス」が「いかされ」なくて残念でしたね。そんなのてめえでやれよというのはとりあえず置いとくとして、「活動家として」でも民事で追いつめるのはありかなと思います。むしろ民事の範囲内で生活領域にふみこんでやるほうが甘えた連中に与える精神的ダメージはでかいような。かりに勝訴したとして相手が応じなきゃ法制度上の大義名分かざして執行、うっへっへ。「○○人を殺せ」とかほざいてるくせしやがって張り込みくらい慣れろよ国士様という気がしないでもないんですが、桜井の狼狽ぶりからしても連中は「日常」で追われるのは相当にこたえるようですしね。公安云々ぬきにして、刑事のほうでうまく追いつめたとしても、それだと相手によっちゃかえって精神的救済となる「反権力の国士様」の虚像を与える場合もあるのでは、と。

  • noiz 10:50   07/12/2010 パーマリンク | 返信
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    単パネ上等、救援無体 

    結局検事釈放でしたね。とりあえずはよかったということで。

    しかし事前に「自ら集団リンチされにいくか」、(在特会に対し)「お前らもマスゴミに乗りたいだろ?」と事件化をほのめかすようにネットでつぶやきつつ突発的に個人決起した場合の救援、ってほとんど打つ手がないでしょう。まず意志一致ができていないから中の人間の意思確認するのが関の山で、初動で遅れをとりつづける。宣伝戦では当人たてようにも、警察が弾圧拡大方針だった場合は、決起した個人の人定情報を追認した状況をあざわらうかのようにガサが周囲に及んだりすることもあるわけです。今回は幸いそうではありませんでしたが、公安警察が徹底弾圧を企図した場合は、まず被疑者は勾留つけられて転向強要と消耗戦がしかけられる。そこにガサを撃ちこむ。被疑者本人も周囲も確実に疲弊する(その一方ではしゃいでるだけの無責任なやじうまはピンピンしてるという皮肉な状況が生まれる)。

    最初から「非暴力直接行動」、だから「正義はわれにあり」と、みずから「犠牲」になるかたちで敵対者を道連れに劇場化していく戦術。それで逮捕された場合、周囲はなにができるか。ただはやしたててオシマイ、弾圧が拡大した場合に腰砕け、じゃ意味がありませんよね。在特会が京都や徳島でさらした醜態(裁判闘争では連敗するしかない状況になっている)をひとごとと思っているうちは、同じことをくりかえして消耗するだけになってしまう。「弾圧で運動を拡大する」というタワゴトはいつの時代にもあることだと思いますが、しかし結果するところは孤立です。孤立にたえうる主体性があるなら突き進めばいいでしょう。けれどそこまで考えての突出なのでしょうか。

    単独行動とその結果を主体訓練(いわゆる「主体固め」)の場と捉える強固な共同性がなかまうちにある場合はそれでもいいかもしれないけど、今回の件はそうじゃない。起きることを想定しての、つまり救援が必要になるかもしれない状況を想定しての支援をオルグしておいての行動だったかといえば、ちがいますよね。だから劇場化ねらいの単パネ(単独行動)が悪いというのではありません。自分を捨てて輿論喚起の起爆剤になることが無駄だとも思いません。不当にも貶められた民族性への憤りを本体として、自分ひとりをかけた行動を非難するいわれもありません。ただ、周囲におよぶ影響を想定しない突出がもたらす状況を、いったいだれがどう捉えるのかという問題がはからずもつきつけられたのだと思うのです。ようするにあとからやってくる困難を引き受けるのか、引き受けないのか。その意味では「救援会」の人たちの誠実さは賞賛に値するでしょう。

    しかしまた、だからこそ単パネをどう支え、あるいは無視するのかという分岐点が今回の件で如実に示されたと思います。心情として支持するのかどうかという話はアリバイにしかならないので、ここでは言及しません。そうじゃなくて、限られた力量のなかで「自分(自分たち)」をどう錬成していくのかという「アンティファ」としての総括が必要だということです。出た賽の目でやってくのも一つの手かもしれませんが、はっきりいってそれじゃキツイと思う。つねに逆宣伝に遅れをとるかっこうで排外主義者と警察との二正面戦を闘わなければならないからです。今回は検パイですんでるけど、戦略なき戦術は消耗・消滅にいきつく。だからここで大きな物語が必要だというのではありません。相手があってのことだから相応の戦略をもたないと流動する状況に対応できずに流されていく問題が残されています。在特会のような腐れ差別者どもに正義などないから大丈夫と思っているうちは、排外主義の克服をめざす社会変革にはとうていとどかないでしょう。「かれら」──「われわれ」の社会が差別を内包していることを認識し、これに対するところからはじめなければならない状況にあっては、排外主義のひどさに依拠した裏返しの正義ではなんのたしにもならないということです。

     
  • noiz 22:20   03/12/2010 パーマリンク | 返信
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    社会運動における発言と記録という分業についての雑感 

    社会運動のなかで遂行される役割分担(=分断)は、性別分業と密接に関連するものであることはごまかしようのない現実だ。とりわけ発言と記録という役割の争奪戦で男性がほとんど勝利してきた史実は誰にも動かせない。

    そのことは近代以後の近代的運動だけではなく、前近代的な民衆運動の歴史についてもいえる。たとえば1918年の米騒動にしても、その着火点となった魚津などの富山一帯の騒動は別名「女一揆」と呼ばれるほど女の活躍がめざましく、それは近代という時間にありながら前近代的な大衆蜂起の伝統に連なるものであったが、直接行動にでた女たちの一群をとらえて新聞が「女房軍」とはやしたてたように、女一揆の女たちは出稼ぎで遠くにいる漁師たちの「妻」「母」としての役割から集団で騒動を起こしたのであった。女たちは「留守を預かるもの」として一揆を結んで決起した。当然ながらそこには農山漁村における前近代的な下層の「家」の秩序が反映されており、行動そのものが支配的な経済秩序に抗するものであったにせよ、「家」内部でかたちづくられる分業とその秩序を打破するものではなかった(まごつく在地の男たちをよそに走り回った進取の気風は見逃せないのではあるが)。そしてこの運動について記録し総括しあとにのこしたのは、やはりほとんど男たちなのだ(1)。なぜ、そうなのか。

    しかしまた、「発言と記録に勝利する男」が男のうちほんの一握りの存在にすぎないのも事実だ。背後にはやはり屍累々の屍の残骸である男の亡霊が無言でたたずんでいる。社会運動の発言と記録とをとらえてあえて性別分業によるもの規定するからには、「男/女」の分業と「男/男」の分業をも措定しなければ現実の話としてひびいてこない場もありえよう。さらに手柄顔に運動について語りながらやはり最後まで語るだけという「理論家」や「思想家」はごまんといるが、この手合いは「男/女」に関係なく存在する。現場にいもしねえのに見てきたように調子こきゃがる発言は、なにも男だけから飛び出すものでない。傲慢な人々はどこにでもいる。

    性別分業の問題には、「男/女」や「男/男」だけでなく「女/女」の分業も数えなければならない。調子をこきまくる一握りの男とそうでない多数の無告の男、調子をこきまくる一握りの女とそうでない多数の無告の女という、同性間における「別」をも設定しなければならない。この「同性間における別」は性差を超越した個人的な特質には還元されない。つねに一定数の人々がこうした役割を要請される差別の構造が、社会を映しとるものとしての運動体内部にも存在するに違いないからである。ようするに、ここでいう「同性間における別」の「別」とは階級分化のことだ。

    「裏方のしごと」(「調整」だったりその他「実務」だったり)は裏方が語ればよい。またそのしごとゆえに存立する運動の歴史については、やはり裏方が総括して提示すればよい。それ以外の二次的な創作物としての運動史は話半分くらいに扱えばよい。二次的創作物にも一定のはたらきがあるとはいえ、基本的には、沈黙する圧倒的多数の活動者たちを搾取する「商品」だからだ。つまり、運動現場にかかわらないが運動の「果実」にはむらがる口八丁やアカデミズムにたてこもるだけの学者が、たまたま社会のかたすみに残された瀕死の言葉だけを収集して運動史を創作しているさまを特別ありがたがる必要はない。

    だがそうして肩をすくめてみせるだけではすまない。買い手の限られる運動史商品はまずもって燃えカスのブレンドにすぎないのにもかかわらず、灰をこねてつくった泥人形が人間であるかのような販促がいけしゃあしゃあとくりかえされ、それを無批判にありがたがる人々がいる。泥人形は必然的にこねるものの意識を投影するだけの存在にすぎないが、それこそが歴史なのだと喧伝され受容される。そうして人々の残骸を編集しつくられた青史がいつのまにか公式の歴史として正当性を獲得してゆく。まさに死人に口なしである。この青史の喧伝と受容の責めは「われわれ」こそが負うべきである。そのような破廉恥の野放しは、社会運動体(と呼べるものがあればだが)と個々の主体の力量のいたらなさをまつものに違いないからである。まるで当たり前のことにすぎないが、「われわれ」自身のうちに宿るこうしたコケオドシの権威主義を点検し撃ちつづけようとすることが、分業の流動化に必要な前提作業となる。裏方こそが同時に表方となる闘争が必要なのだ。

    したがって「われわれ」は、幾千幾万幾億もの「女一揆の女たち」、あるいはたとえば女としての被差別と被抑圧を受苦しつつ三里塚で生き抜いて死んだ「大木よね」の声を聞き、「もうおらのみはおらのみのようであって、おらのみでねえだから」(2)との不退転の覚悟で戦闘宣言を発した「大木よね」──「女たち」そのものにならなければならない。つまり「男」なら「おらのみ」=「男性として特権的な身体性」をかなぐりすてて、身にまとわりつく権利を共同所有のものとしてつくりかえなければならない。私的権利は社会的な権力を源泉としながらついに「おらのみ」に収斂するから、これを廃絶しようとすれば当然にも権利への対しかたを問題にしなければならない。そのためにはまず自らの特権がどうあるかを探り、その破壊の糸口を探求しなければならない。三里塚闘争における援農は、この問題への手がかりを与えるものであるだろう。

    そしてそのうえでなお「われわれ」自身が記録者になるとともに同時に活動する者とならなければならない。民衆史あるいは社会運動史は、自らもそこにいる現場を対象としてつむぎだす、ほか誰のものでもない「われわれ」自身の創作物でなければならないのである。誤りを怖れる必要はない。それは前後左右に存在する自分以外のものが糾していくはずだからである。そして指摘されうべき誤りが誤りとして認められるときには、躊躇することなく指摘への合意を示し、そうしてえられる認識の変化を自らに往還させればよい。そしてこうした点検は相互的なかたちによってしかなされえないであろう。「われわれ」と主体を措定するゆえんである。部分的にであれ、他人のなかに自分がいる。そうとらえるのでなければ社会運動を記録し、そしてその記録から歴史をつくることなどとうていできはしない。

    蛇足だが、かかる不確かなかりそめの共同行為においてのみ、分業の勝者でありがちな男は男としての形質をそうでないものへとたたきなおす契機をつかむ──かもしれない。

    (1)全国的な1918年米騒動研究の古典となった『米騒動の研究』は男たちの手によった。民衆史の観点から画期をなすつい最近の『女一揆の誕生 置き米と港町』(桂書房、2010年11月)の著者もやはり男性である。
    (2)ウィメンズアクションネットワーク(WAN)がこのことばを引きながら、「大木よねさんは戸村一作さんとならぶ三里塚闘争の英雄」としているが、なぜこのような英雄史観をてらいもなく語るのか。しかも闘争の代表的存在を措定し、それに「ならぶ」とごていねいにも序列を示唆しているが、よねはあくまで「男に伍す女」としての「英雄」でしかなかったのか。この短いテキストのなかでさえ性急に行われる毀誉褒貶はなにを意味するのか。よねはもちろん「英雄」ではない。三留理男らが形容したように、大木よねは貧者としての鬼であり夜叉であった。 鬼であり夜叉である様相は、強大な政治的・社会的権力に対してのものであることはいうまでもない。よねは強制代執行で機動隊に襲撃されたとき、ジェラルミンの盾を水平打ちに顔面に打ち込まれ歯を叩き折られた。このときのよねの「鬼の形相」は、まさに殴られても蹴られても踏みにじられてもついに屈することのない底辺民衆の「顔」をあらわにしたものであったと記録された。
     なお、ともに三里塚で闘った人物による以下の回想がある。加瀬勉「大木よね婆さんと共に戦って 寄稿・三里塚闘争覚書 〔上〕」(労働者共産党編『プロレタリア』第486号)、加瀬勉「人として生きたい、だから闘い抜く 寄稿・三里塚闘争覚書(下)」(同前『プロレタリア』第487号)。

     
  • noiz 03:54   23/11/2010 パーマリンク | 返信
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    くたばれ自己規制 

    へー。就活くたばれデモの関西版は「パレード出発時まで参加者募集」で参加費500円取るんだ。参加費はともかく、途中参加禁止つーのは……主催者はたぶん無事に終わらせたくて必死でパッチなんだろうけど、もうすこし度量ひろくてもいいよなこれ。不測の事態は想定しておくべきだけど、公然行動であらかじめすべてを把握・統制しようというのがどだい無理だから、心臓バクバクでも精一杯きばってもうちょっとノンビリとしたかまえでいけないものか。予測不能な行動をとる人間がまきおこす不測の事態のケリは自らつけてもらえばよくて、そーいうのも込みで、かつ放置で(笑)。届け出デモのはずなのに実質的に許可制にされちまってる地平からくみたてなきゃならん気苦労はよく分かるけど、警察の不当な規制に過剰適応するのはかなしい。無責任に暴れろと煽りたいわけじゃない。姿勢の問題です。

    公安条例や道交法のあみをおっかぶせられて、それでも行動の自由を最大限確保しようともがくんじゃなきゃ、デモがもつ潜勢力は地表にあらわれる前にどんどん縮減されてゆく。なぜデモは実態として許可制なのか。なぜ無届けデモが非合法化されているのか(法律論からいえば無届けであっても合法性は一概に阻却されていないはずだけれど)。あらかじめデモの威力を封殺しようとする条例や法による規制そのものが弾圧ではないか。届け出デモは事前弾圧の限界のなかにあるのだと自覚しながら、過剰な自己規制方針は自分のクビをしめるだけじゃなく後続の阻害要因にもなるんだと認識するのでなくては、とてもじゃないけど「デモ」などとはいえない。規制はあとになってジワリジワリと効いてくる。その意味でデモはひとり主催者だけのもんじゃない。

     
    • どもです 04:14   29/11/2010 パーマリンク

      んー。東京の主催関係者はPARCの「活動家一丁上がり講座」関係者と、この講座にかかわりの深い某NPO関係者で構成されております。例の「た◯き村」で団子生活している人とかね。ほかの地域は知らないけど、東京での主催者は「ゲロゲロ」連中です。報告まで。

    • noiz 14:13   29/11/2010 パーマリンク

      わざわざ忠告してくれる厚誼はありがたいんですが、インネンつけられてもあとからどうとでも言えるような風評ふうの報告はまにあってます。

  • noiz 13:33   17/11/2010 パーマリンク | 返信
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    The Black Bloc Papers 

    ブラックブロックについては活動家が書いているペーパーあたったほうがいいかも。暴力/非暴力の二元論的な神話の粉砕にやくだつと思う。

    The Black Bloc Papers (PDF)

     
  • noiz 12:49   17/11/2010 パーマリンク | 返信
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    「はねかえりのブラックブロックをみたら警察とおもえ」──それじゃシアトルの闘いで重刑攻撃をくらったやつは警察のエージェントとして獄中にあり、ジェノヴァサミットでカリビニエーリ(国家憲兵隊)車両を攻撃して射殺された“リス”(カルロ・ジュリアーニ)は警官として死んだわけ? んなわけネーヨ! 

    街頭闘争で破壊活動が行われるといつも出てくるのが「スパイによる挑発」陰謀論。イルコモンズがトロントG20でそういう宣伝にのるとはね。非暴力直接行動に唯一の正義をみいだすのは自由だけれど、非暴力直接行動から実力行動までを包摂してなりたっている共闘をスポイルする陰謀論にはまるくらいなら、弾圧をしかけられている人らの反撃を紹介したらいいのに(*1)。同じカナダでの行動でも、2001年4月ケベックの反FTAA行動(A20)では、レッドゾーンでブラックブロック、CLAC-CASA(反資本主義結集/アメリカサミットようこそ委員会)、レッドフラッグ(マオ派の革命的共産党の青年組織)などによってかなり激しい闘いがくりひろげられ、もちろん平行してFBIやシークレットサービスもいろいろと策動していたのだけれど(*2)、このときは冷静な総括のほうが強く(*3)警察の情報活動にのせられた陰謀論はそんなに目立たなかったのになー。この反FTAA闘争では前年のプラハでの反IMF闘争での経験にならい、行動の態様によってゾーンをわけて相互不干渉とすることによって共闘を分裂させまいとする戦略がとられたが、反FTAA闘争につづいたEU諸会合、世銀会議、ジェノヴァサミットなどに対抗する2001年「欧州の燃える夏」では、やはりATTACフランスによるブラックブロック批判に集約されるかたちで「暴れるやつらが運動を破壊する」といったフレームが広がった。こうした「暴動は警察の手先によるもの」との不確かな発話ですべてを語ろうとする陰謀論は、警察の治安弾圧活動に対する社会運動の側の耐性が低下していることを示していると思う。もちろん警察からの送り込みはあるだろう。しかし一部をもって全体を決めつけるやりかたは、必然的に分断と社会運動のなかの“ピースコップス”をうみだすことになる。そのことによって利益を享受するのが治安弾圧機関であることはいうまでもない。

     
  • noiz 17:20   22/09/2010 パーマリンク | 返信  

    尖閣諸島はわがものと叫ぶ二つの「共産」(ママ)党に災いあれ 

     尖閣諸島は日本領だァァァとこめかみに血管をうきたたせながら叫んでいる人は、いまこそ日本「共産」(ママ)党を見なおそう! 党曰く、

    (前略)

     1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。

     所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。

    (中略)

     領海は、国際法上、その国が排他的に主権を行使する領域です。尖閣諸島付近の日本の領海で、中国など外国漁船の違法な操業を海上保安庁が取り締まるのは、当然です。

    (後略)

    日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」抜萃(『しんぶん赤旗』2010年9月20日)

     とほー、これでなにが共産党なのか皆目見当がつかない。愚見では、地球上のあらゆるものがもともと「無主」なのであり、所有制度がこの盗奪からはじまったものである以上、共産党と自称する政治集団はかかる制度を根底から破壊して「無主」に返すのが本態であろ。
     そもそも、薩摩藩の琉球支配を継承した日本帝国主義が「琉球処分」と「旧慣温存」によってうみだした「沖縄県」を、なぜ日本「共産」(ママ)党はそのまま前提としていられるんだろーか。「支配」欲がこうじてプロレタリア国際主義ならぬ小ブル(偽装プロレタリア)国粋主義にそまりきった日本「共産」(ママ)党に「共産」のみちなし。尖閣諸島の領有権を叫ぶ他方の覇権主義者、中国「共産」(ママ)党にしても同じ穴のむじな。
     ともあれ、「赤い」(「赤」を偽装した)覇権主義の行末は、いうまでもなくそれぞれ内外に貫徹する不信の体制を強化するところにあるだろう。しかし不信の組織化では共産主義などありえるわけもなし。国家主義ばかりが花盛りのいま(グローバル資本主義ったって、資本主義者も例外なく国民国家が頼みの綱)、唯物弁証法などなんの効果もないこけおどしのオマジナイになってしまった。みんななかよく国家主義。あほくさ。
     日中「共産」(ママ)党に災いあれ、しかしてすべての国家主義党に災厄がもたらされんことを。

     オマジナイをばかにしながら呪詛をいわずにおれないこの情けなさよ。

     
    • 攝津正 09:12   03/10/2010 パーマリンク

      今回の問題どう考えればいいのかな、と自分の中で悩んでいたけれど、noizさんのブログを読んでヒントをもらいました。

  • noiz 12:03   15/09/2010 パーマリンク | 返信
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    場の専一と非編成について 

    さて、お香の件。もちろんお香を手渡した人間が誰であろうと、そのことが問題なのではなく、お香とともに態度を違える人間に対して高見から「落ち着いて」などと言い放つ態度を問うのである。公共空間はどうやらこの日本の社会にあっては「誰のものでもない=誰も勝手なことをしてはならない」という私有制を裏返した論理によってその存立が支えられているようであるが、その禁足の内容を指示するしるしとして粗暴さ・がさつさあたりがもっとも頻繁に参照される。ようするに「迷惑をかけるな」という恫喝のために、「〈暴れる〉こと・場を乱すことが問題」との認識への合意が動員されるのだ。では、〈大人(おとな)〉しくすること──これはそうではない他者を〈子供〉視することに通じる、そう、まさに日帝が台湾原住民を「可愛い子供」として宣撫教化しようとした態度と同根だ──が他者に迷惑をかけないための唯一の態度なのか。そうではあるまい。「迷惑をかけない」とかいうことを「正義」としてふりかざして場の平穏さを保持することを他者に要求することもまた「迷惑」でありうるからだ。場の排他的占有こそが問題なのだ。そもそも「迷惑」と感じるなかみは人によってバラバラである。そのことを踏まえずに「誰のものでもない」はずの場を占有したつもりで他者に対してあれこれと指令する態度は滑稽だ。いや、むしろ有害でさえある。行為の多様性による混沌と、混沌からはじまる議論の可能性をそこなうからである。わたしはこうした行為の唯一前衛性を拒否する。行動の場でお香をたく人もいれば、ろうそくをもって悲劇を悼む人もいれば、ドンツクドンツク唱名を唱える人もいれば、不当な規制をかける警察に文句をたれ衝突する人もいれば、とにかくシュプレッヒコールをくりかえす人もいれば、ただ黙ってプラカードをかかげて佇立する人もいる。それでいいではないか。ただただそこにあらゆる人々がいる、ということが重要なのだ。だからこそ、われわれおっかなびっくりのおっちょこちょい(軽挙妄動する輩)は、かつて寺島珠雄がうたったごとくに英雄を拒否する。

     前衛でなく同盟軍でなく
     無論主力ではなく
     うしろに控えもせず

     過程に奮迅して斃れつつ
     新たな過程を現出せしめる
     非編成軍団

     擦過する
     血をもてる影
     の ごとき

    「われら」(詩集『情況と感傷』所収)

    だからこそ、お香を受け取っておきながら地面に叩きつけた仲間のやや乱暴な応答に、わたしは異議をさしはさまなかった。専一への対抗は英雄のものではない。唯一の正義に向かって呪詛を放つ編成されざるおっちょこちょいどもはけっして英雄たらんとして自己を組織しようとするのではない。むしろ独善的な英雄を自他のうちにみとめてこれと格闘するために、強制されようとする表面的な静謐に異をとなえ、かき乱そうとするのだ。だから寺島にならってここで「非編成」と自己組織化のありようを見定めるとき、それは場の排他的占有を回避させようとする「バラバラのままの一時的結集」をめざすものとして具体化される。つまり、われわれ軽挙妄動する輩にとってただ街頭で治安弾圧機関と衝突することが目的なのではない。組織化の方法を実践的に問い続けながら立ち、倒れ、そしてまた立ち、倒れることこそが、自己の鍛錬と一時的な集団編成の訓練に有用な過程として、手段でありながら同時に目的として捉えられるのである。そしてむしろ英雄は、他者やテンデンバラバラさを排除しながら空間の専一を生み出そうとする統一運動の表徴として現れる。しかも全方位自己販促活動のために(そんなに人に好かれたいか!)英雄が要請され輩出されるのだ。運動による運動のためと称する運動の搾取。そんなものは、クソ、クラエ。

     
    • 攝津正 22:50   17/09/2010 パーマリンク

      お香の話で思い出したんですが、『ネオリベ生活批判序説』だったか矢部史郎さんがインタビューされていた本があって、そこで矢部さんが、変なエコロジストが割り箸を使わないでMy箸を使おう、みたいなことを言っていると、大量の割り箸を叩き割ったりした、という意味のことを言っていたのですが、noizさんが書いていたまやラミスさんと矢部さんの、お香を巡る擦れ違いも、そういうことだったのかな、とか思いました。

      いま、まやラミスさんがやっていたFEEDってロックバンドの音楽聴いてますが、私にロックを批評する資格はないけれども、それなりに良いようにも思いました。

      園くんが紹介していた、ダグラス・ラミスとまやラミスのイヴェントも、ナマケモノ倶楽部主催だったけど、確かに彼女はスローでピースな流れの象徴的存在だった(今も?)かもしれません。

    • 北条うらら 23:23   20/09/2010 パーマリンク

      まず確認したいのが、まやラミスと矢部史郎は上司―部下の関係にでもあったのでしょうか?まやラミスが命令を下す侵略者でも支配者でもないのであれば、日帝―台湾原住民の例えは不適当です。日本の世間論でも十分理解できる話なのに、なぜ大袈裟な権力を欲するのでしょうか?

      「迷惑をかけない」ということが全体主義的な抑圧に変わるということはよく指摘される点ですし、自己責任論の蔓延につながる重要な課題と思っています。

      一方で、粗暴な表出はマッチョで攻撃的で排他性を含みます。力関係によっては、場に対して一気に抑圧的な行動になるし、まさに抑圧的に機能する場面に何度も遭遇しています。「おっちょこちょい」と無邪気に表現することは、そういう部分を隠蔽することにつながりまし、そういう部分が「ヒロイック」と感じるのです。粗暴な表出は英雄登場と相性が良いと思います。

      「迷惑」はお互い様の話ですけど、マッチョで攻撃的で排他的な表出については自己点検をお願いします。

    • noiz 12:02   21/09/2010 パーマリンク

      なんか言い訳めいていて、自分でも気が滅入ってきますが、もうしばらくおつきあいください(苦笑)。

      ご指摘のとおり、支配関係はもちろんありません。だからアナロジーが不適当とおっしゃいますけど、ここでは相手を「子供扱いする」一方の振る舞い方についていっています。その場をいったりきたりしていた人間に対し、お香を手わたして「落ち着いて」いいはなつ行為の傲慢さについていっているのです。場の「主人」のごとき態度がなぜとれるのかと問題にしている。

      手わたされたものを投げ捨てる行為(とその暗黙の支持)は、〈大人─子供〉の関係性を他者にもちかけることの拒絶としてであって、北条さんのいう「マッチョで攻撃的で排他性を含む」ものとしてあったでしょうか。かりに攻撃的だったとしても、それは反撃でしなかいわけですよ。そしてむしろ排他性の表出は、このばあいお香を手渡して託宣をのべる行為のほうに存在した。

      >力関係によっては、場に対して一気に抑圧的な行動になるし、まさに抑圧的に機能する場面に何度も遭遇しています。

      一般論としてはそのとおりでしょう。しかし粗暴な行為がすべてそのとおりかといえば、そうじゃない。まさに「力関係によっては」です。繰り返しますが、おしつけられようとする関係性が不当だと思えばこその、拒絶の意志を示すひとつの方法としての「投げ捨て」です。

      具体的な話に戻せば、わたしたちは場を簒奪したのではありません。アメリカ大使館前付近にはあとからやってきたけれども、ずっとその場を占有して他の人たちを追い出したわけでもない。むしろその場では少数であったし、また多数派になろうと策動したわけでもない。もちろん大使館職員にいいたいことはいえますよと、問われたことに答えるかたちで呼びかけはしましたが、「マッチョで攻撃的」な作法に人々を追い込んだわけでもないのです。そのつもりもない。そもそも大使館職員に文書を手交するなどの行為は、一定の平静さのうちに行うものですしね。

      だからなにも「場を支配」しようとしながらそのことを隠蔽するために、「おっちょこちょい」などと自らを評言したのではありません。警察のいいなりになるかたちで場の平静さをつくりだし、そしてそれを保とうとする「空気」を一切読まずにあとから行く(そこは誰の占有空間でもないから)、つまり諍いの空気を新たに持ち込む可能性がありながらもしたいようにする、いわば「軽率さ」をそのように評しただけです。

      また、警察の街頭行動の規制に対して抗議したり、行動現場でのふるまい方についての(広い意味での「仲間うち」の)規制を拒否する態度に現れた自分たち自身のありようを「粗暴」としましたが、るる注釈してきたようにそれは「マッチョで攻撃的で排他的な表出」とはずれています。北条さんは「粗暴な表出はマッチョで攻撃的で排他性を含みます」と抽象的に定義されていますが、わたしが記した具体的な場においては、そもそも初発の「暴力」的な行為が誰のものだったのかは明白でしょう。(ここでいう「暴力」とは物理的なそれではありません、ねんのため)

    • noiz 14:49   21/09/2010 パーマリンク

      一通りまとめて読み直したんだけど、ループしてる >_<

  • noiz 17:46   01/09/2010 パーマリンク | 返信  

    関東大震災=人災87年目の夏 

    防災訓練でまたもオマワリだらけ。そんなことをやっている暇があったら、政府は人災としての関東大震災にオトシマエをつけよ。

    戒厳令とデマにのった日本人民衆による朝鮮人・中国人大虐殺、習志野連隊による労働運動・社会運動活動者虐殺(亀戸事件、王奇天も含まれる)、憲兵隊による大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺。

    これらについて日本政府がしたこととはなにか。徹底的な報道管制と弾圧。特に虐殺を問題視する労働運動や社会主義運動に対する監視・弾圧がよりいっそう厳しくなった(虐殺の真相究明を指向する労組に対しての官憲の動向は、その元締めたる内務省警保局による『社会運動の状況』の1924年以降版を参看すればよい)。

    なお、1999年に虐殺被害者遺族から人権救済申立を受けた日弁連は、2003年8月25日、首相に対し国としての謝罪、真相調査、原因公開を勧告したが、今にいたるも政府は何もしていない。これが「民主主義日本」の真の姿である。

    ※勧告の根拠となった調査資料一覧については、梓澤和幸弁護士のサイトに掲載された日弁連勧告で確認できる。(公文書が多く含まれる)

    cf. 関東大震災80周年記念集会のページ

     
  • noiz 14:18   31/08/2010 パーマリンク | 返信
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    2008年度の勾留請求却下率が0.77%(認容率99.23%)という日本司法の壊死が現実なら現実を撃とう 

    Kさんへの勾留が認容されたとか。大林組を撃つ裁判闘争にたちあがったKさんを拉致する、まさに卑劣な政治弾圧。しかも弾圧から分かることは警察・検察・裁判所の一蓮托生ぶり。

    ところで、くちはばったいようですが、警察の手持ち時間48時間と検察の24時間あわせて、逮捕による身体拘束は法制度上は勾留にさえ数えられません。この最長72時間(3日間)のあいだに検事が勾留を請求すれば、被疑者の身柄は地裁に送られます。そして裁判官による勾留質問がありますが儀式みたいなもので、ほとんどすべての請求が認容されます。これがいわゆる「一勾(いちこう)」です。満期は10日。勾留から10日をすぎても捜査が必要とのたてまえで延長請求がなされればこれも高確率で認容されてしまいます。いわれるところの勾留延長(「二勾」)です。つまり最初の3日+勾留10日+勾留延長10日の幅で、被疑者は起訴手続きなく最長23日間も代用監獄に監禁されうるわけです。被疑者は勾留が認容されても第三者機関にひきわたされないため、警察・検察は取調べし放題。これが冤罪の温床として世界に悪名高き Japan’s detention system のカラクリ。治安機関がかかる人質司法によって「犯罪者」を自動的に生み出す抑圧装置をこしらえ、「体感治安」なる「不安」をあおりながらコミュニティ・ポリーシング(「地域住民」をまきこむ「地域」警察活動)をすすめてきたことは周知のとおり。〈治安=司法〉の結託は予防拘束社会をつくりあげつつあるといってもいいでしょう。

    なお、日本では勾留請求の認容率は9割をこえます。9割どころか、2008年度は99.23%にも及んでいます(2010年版『犯罪白書』PDF版・第1部12pに「平成20年」における勾留請求却下率0.77%とあり)。こうした状況は近年ずっと続いてきたもので、法務省がこの2008年度の数値についてさえ「勾留請求却下率は,平成15年から上昇傾向にあり」と注釈するくらいですから、日本の司法はほとんど死んだままできたといっても過言ではありません。勾留請求にも家宅捜索令状にも機械的にハンコをついていく裁判官はお役所仕事をこなすただの官僚でしかない。ようするに、警察・検察が一体化しているだけでなく、裁判所もまた権力機関としてこれら捜査機関に手を貸してあたりまえの空恐ろしい現実があるわけです。三権分立なんか真っ赤なウソ。

    やはり被疑者は黙秘するのが防御権の最大限の行使であるといわざるをえません。Kさん頑張れ!

    16:35 「棄却」を「却下」に修正、年度修正

     
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