非婚(非制度婚)を望むなかまたちよ、同志はどこにでもいる。
ニュース速報+の「【社会】「今の若者は出会いがあっても収入低く結婚踏み切れずにかわいそう」 『良縁親の会』代表(78)」スレ より
395 名無しさん@12周年 :2011/09/02(金) 23:27:21.20 ID:O29z6fZ80
結婚制度など旧文明の遺物
けれど事実婚をも拒否し、在家にして出家を希望するなかまたちよ、われらの自由は意識して「文明」と衝突してかちとるものでければならない…のかもしれない。
非婚(非制度婚)を望むなかまたちよ、同志はどこにでもいる。
ニュース速報+の「【社会】「今の若者は出会いがあっても収入低く結婚踏み切れずにかわいそう」 『良縁親の会』代表(78)」スレ より
395 名無しさん@12周年 :2011/09/02(金) 23:27:21.20 ID:O29z6fZ80
結婚制度など旧文明の遺物
けれど事実婚をも拒否し、在家にして出家を希望するなかまたちよ、われらの自由は意識して「文明」と衝突してかちとるものでければならない…のかもしれない。
社会運動のなかで遂行される役割分担(=分断)は、性別分業と密接に関連するものであることはごまかしようのない現実だ。とりわけ発言と記録という役割の争奪戦で男性がほとんど勝利してきた史実は誰にも動かせない。
そのことは近代以後の近代的運動だけではなく、前近代的な民衆運動の歴史についてもいえる。たとえば1918年の米騒動にしても、その着火点となった魚津などの富山一帯の騒動は別名「女一揆」と呼ばれるほど女の活躍がめざましく、それは近代という時間にありながら前近代的な大衆蜂起の伝統に連なるものであったが、直接行動にでた女たちの一群をとらえて新聞が「女房軍」とはやしたてたように、女一揆の女たちは出稼ぎで遠くにいる漁師たちの「妻」「母」としての役割から集団で騒動を起こしたのであった。女たちは「留守を預かるもの」として一揆を結んで決起した。当然ながらそこには農山漁村における前近代的な下層の「家」の秩序が反映されており、行動そのものが支配的な経済秩序に抗するものであったにせよ、「家」内部でかたちづくられる分業とその秩序を打破するものではなかった(まごつく在地の男たちをよそに走り回った進取の気風は見逃せないのではあるが)。そしてこの運動について記録し総括しあとにのこしたのは、やはりほとんど男たちなのだ(1)。なぜ、そうなのか。
しかしまた、「発言と記録に勝利する男」が男のうちほんの一握りの存在にすぎないのも事実だ。背後にはやはり屍累々の屍の残骸である男の亡霊が無言でたたずんでいる。社会運動の発言と記録とをとらえてあえて性別分業によるもの規定するからには、「男/女」の分業と「男/男」の分業をも措定しなければ現実の話としてひびいてこない場もありえよう。さらに手柄顔に運動について語りながらやはり最後まで語るだけという「理論家」や「思想家」はごまんといるが、この手合いは「男/女」に関係なく存在する。現場にいもしねえのに見てきたように調子こきゃがる発言は、なにも男だけから飛び出すものでもない。傲慢な人々はどこにでもいる。
性別分業の問題には、「男/女」や「男/男」だけでなく「女/女」の分業も数えなければならない。調子をこきまくる一握りの男とそうでない多数の無告の男、調子をこきまくる一握りの女とそうでない多数の無告の女という、同性間における「別」をも設定しなければならない。この「同性間における別」は性差を超越した個人的な特質には還元されない。つねに一定数の人々がこうした役割を要請される差別の構造が、社会を映しとるものとしての運動体内部にも存在するに違いないからである。ようするに、ここでいう「同性間における別」の「別」とは階級分化のことだ。
「裏方のしごと」(「調整」だったりその他「実務」だったり)は裏方が語ればよい。またそのしごとゆえに存立する運動の歴史については、やはり裏方が総括して提示すればよい。それ以外の二次的な創作物としての運動史は話半分くらいに扱えばよい。二次的創作物にも一定のはたらきがあるとはいえ、基本的には、沈黙する圧倒的多数の活動者たちを搾取する「商品」だからだ。つまり、運動現場にかかわらないが運動の「果実」にはむらがる口八丁やアカデミズムにたてこもるだけの学者が、たまたま社会のかたすみに残された瀕死の言葉だけを収集して運動史を創作しているさまを特別ありがたがる必要はない。
だがそうして肩をすくめてみせるだけではすまない。買い手の限られる運動史商品はまずもって燃えカスのブレンドにすぎないのにもかかわらず、灰をこねてつくった泥人形が人間であるかのような販促がいけしゃあしゃあとくりかえされ、それを無批判にありがたがる人々がいる。泥人形は必然的にこねるものの意識を投影するだけの存在にすぎないが、それこそが歴史なのだと喧伝され受容される。そうして人々の残骸を編集しつくられた青史がいつのまにか公式の歴史として正当性を獲得してゆく。まさに死人に口なしである。この青史の喧伝と受容の責めは「われわれ」こそが負うべきである。そのような破廉恥の野放しは、社会運動体(と呼べるものがあればだが)と個々の主体の力量のいたらなさをまつものに違いないからである。まるで当たり前のことにすぎないが、「われわれ」自身のうちに宿るこうしたコケオドシの権威主義を点検し撃ちつづけようとすることが、分業の流動化に必要な前提作業となる。裏方こそが同時に表方となる闘争が必要なのだ。
したがって「われわれ」は、幾千幾万幾億もの「女一揆の女たち」、あるいはたとえば女としての被差別と被抑圧を受苦しつつ三里塚で生き抜いて死んだ「大木よね」の声を聞き、「もうおらのみはおらのみのようであって、おらのみでねえだから」(2)との不退転の覚悟で戦闘宣言を発した「大木よね」──「女たち」そのものにならなければならない。つまり「男」なら「おらのみ」=「男性として特権的な身体性」をかなぐりすてて、身にまとわりつく権利を共同所有のものとしてつくりかえなければならない。私的権利は社会的な権力を源泉としながらついに「おらのみ」に収斂するから、これを廃絶しようとすれば当然にも権利への対しかたを問題にしなければならない。そのためにはまず自らの特権がどうあるかを探り、その破壊の糸口を探求しなければならない。三里塚闘争における援農は、この問題への手がかりを与えるものであるだろう。
そしてそのうえでなお「われわれ」自身が記録者になるとともに同時に活動する者とならなければならない。民衆史あるいは社会運動史は、自らもそこにいる現場を対象としてつむぎだす、ほか誰のものでもない「われわれ」自身の創作物でなければならないのである。誤りを怖れる必要はない。それは前後左右に存在する自分以外のものが糾していくはずだからである。そして指摘されうべき誤りが誤りとして認められるときには、躊躇することなく指摘への合意を示し、そうしてえられる認識の変化を自らに往還させればよい。そしてこうした点検は相互的なかたちによってしかなされえないであろう。「われわれ」と主体を措定するゆえんである。部分的にであれ、他人のなかに自分がいる。そうとらえるのでなければ社会運動を記録し、そしてその記録から歴史をつくることなどとうていできはしない。
蛇足だが、かかる不確かなかりそめの共同行為においてのみ、分業の勝者でありがちな男は男としての形質をそうでないものへとたたきなおす契機をつかむ──かもしれない。
(1)全国的な1918年米騒動研究の古典となった『米騒動の研究』は男たちの手によった。民衆史の観点から画期をなすつい最近の『女一揆の誕生 置き米と港町』(桂書房、2010年11月)の著者もやはり男性である。
(2)ウィメンズアクションネットワーク(WAN)がこのことばを引きながら、「大木よねさんは戸村一作さんとならぶ三里塚闘争の英雄」としているが、なぜこのような英雄史観をてらいもなく語るのか。しかも闘争の代表的存在を措定し、それに「ならぶ」とごていねいにも序列を示唆しているが、よねはあくまで「男に伍す女」としての「英雄」でしかなかったのか。この短いテキストのなかでさえ性急に行われる毀誉褒貶はなにを意味するのか。よねはもちろん「英雄」ではない。三留理男らが形容したように、大木よねは貧者としての鬼であり夜叉であった。 鬼であり夜叉である様相は、強大な政治的・社会的権力に対してのものであることはいうまでもない。よねは強制代執行で機動隊に襲撃されたとき、ジェラルミンの盾を水平打ちに顔面に打ち込まれ歯を叩き折られた。このときのよねの「鬼の形相」は、まさに殴られても蹴られても踏みにじられてもついに屈することのない底辺民衆の「顔」をあらわにしたものであったと記録された。
なお、ともに三里塚で闘った人物による以下の回想がある。加瀬勉「大木よね婆さんと共に戦って 寄稿・三里塚闘争覚書 〔上〕」(労働者共産党編『プロレタリア』第486号)、加瀬勉「人として生きたい、だから闘い抜く 寄稿・三里塚闘争覚書(下)」(同前『プロレタリア』第487号)。
人間は基本的に醜悪なのだということ、これは人それぞれが認識すべきもので、分かち合うことなんかできるわけがないと思っている。クソヤロウがヤロウとしてダメなのだということはヤロウ自身で把握すべきであり、クソアマがアマとしてというのも同様だ。結果として「気付く」契機につながるものとして、具体的な問題で糾弾されるのはいい。
しかし「こうすればいい」「こうとらえればよい」と一方的にコンセプトを講釈されて分かったつもりになって、なおかつチューターに征服されているようでは、まるでダメ。なぜか。簡単なこった。机上のお勉強でえられたものは決して血肉化しないからだ。そもそも手抜きの啓発セミナーってのは「認め合い」、つまりなれ合いだけが残って、厳しい相互批判は絶対に行われない。そもそも居心地が悪くなるようなまっとうな批判が回避されることが美しい場であるかのように騙られる昨今、喧嘩抜きのワークショップはただひたすらに気持ちの悪いセミナーにしかならない。なぜまともな相互点検をしないのか。できないのか。これも簡単なことだ。自分に都合の悪い切開はしたくないからだ。
各自に都合がいいだけのもたれあい。そこに見るべきものは何もない。ただひたすら退嬰だけがある。そうした場では無責任でなあなあの「無決定の決定」が支配法則となる。端的にいって、責任の欠落をとがめることができない泥沼をうみだすのである。
それだからこそ、部分ハウスキーパーオルグのクソヤロウ問題とかのダメすぎな自己の行為を対象化できずに、えらっそーな呼びかけをたれながすことができるわけだ。だいたいテメエのふるまいを相対化できてないんじゃ、いくらお勉強してもムダなだけ。それに付和雷同してる政治屋どもは、もっとタチが悪い。
他者を傷つけず、自分が楽になるためにだぁ? ざけんじゃねえぞ。セイファースペースの理論は、てめえだけが気持ちよくなるためにあるんじゃねえ。場にかかわる全員が「ベター」を選択できるための考究の材料として、あれこれの経験則が追究されてきたんだろ。そんな基本的なこともふまえられないで、なーにが「ジェンダー」だコラ。
てめえらに都合よくつまみぐいしているから、結局そこには(ヘテロの)男と女しか存在する余地がない。てめえらの頭のなかにはてめえと連れのことしかない。だから男・女ばかりの世界が排出される。世界は両性だけなどというていたらくで説教の場をつくるとは、図々しいにもほどがある。
これはちっちぇー悲劇のヒロイズムオルグとはまったくの別の話だが。
自由恋愛は当事者全員の合意がなければありえない。世間的価値観でいう「不倫」や、民法いうところの「不貞」であるかどうかが問題なのではない。そうではなく、当事者間の力の不均衡さを捨象し、てめえにだけ都合のよい「自由」を追求するようなやつの意識をまず粉砕すべきだ。以前、ある問題でそう主張したことがある。
どちらかというとおれはヤロウに対してよりキツクあたる。たいていの場合、ヤロウのほうが甘い目を見ているからだ。そうなりがちな社会的環境ができあがっている。というわけで、てめえばかり「自由」を満喫するヤロウどもは社会的に死ね。
個別の関係のなかでの「自由」を防衛するためにナワバリ意識を肥大させ、政治未満のパターナリズム政治をはるやつは己の醜悪さに気がつかない。あるいは気がつかないフリをしている。だから鉄拳が必要だとの結論になる。そう、先の問題では、おれはまず甘い汁をすっていたヤロウをぶん殴ればいいと主張したのだった。だが、てめえに都合のよい「自由」の追求、その裏返しの保身の政治はヤロウだけのものではない。
自分が逮捕されたときのためにと自宅のカギを預ける。こともあろうにガサってなんですかみたいな「未経験者」に。自分を心配させて与える役割が部分的ハウスキープという醜悪さ、うんざり。ヘテロやろうのヒロイズム満載の個別関係オルグ、うんざり。公私混同、うんざり。そういう人間が主催するわかちあいの場とやら、うんざり。つうかそんなんでてめえらよく野合できるな。あいた口がふさがらんわ。
昨日の車中の話、運転手との会話のなかで。男としてとーぜんのように化粧なんかしないでもよゆーでわたっていける社会(むしろ男が化粧したら排除される社会)にあぐらをかいたままのフェミ気取りヘテロ男(こういう男としてのアドバンテージに痛みを感じずに出家もしないでヘテロ男をやっていられるということそれ自体でフェミニストだなどとは口が裂けてもいえないのだよクソ男諸君)ががんばって化粧してる女にむかって「降りればいいのに」などと気安くホザき、「生き残り」戦略としてそうせざるをえないかもれしない女の化粧の要因がじつは外在的なものかもしれない可能性について一切考えないのなら、それは一日でも早く死んでよいクソ男だということを考えた。そして化粧しない「女」の友人には「気をつかわずにすむ」と思える感覚に安住しがちな自分もまたクソなド男なのである、とも。男としての不当な社会的利益をあたりまえのように享受して生きてきて、そのことを自覚したらなにをなすべきか?(なーにが就職氷河期だバカ! 女や性的少数者はいつだって氷河期だっただろうが恥をしれこのド男ヤロウ) 男としてのうのうとしていられないような生=性を生きるには? まあやっぱり異(性)装か肉体改造か出家か自殺だろうな。でも出家したと称して妻帯濫行におのが醜悪さをつゆほども疑わないクソ坊主どもの世界に行きたいとは一ミリたりとも思わない。王法に仏法を屈服させてまともな総括もしてないアチラさんのほうでもおれみたいな無政府妄想者はごめんてとこだろう。あえてまたぐらをスースーさせる意味不明の装いである近代的スカートはきらい。痛いのもきらいだから男をすてる肉体改造はムリそう。じゃ、自殺か。それなら補陀落渡海がいい。でもその勇気がない。やっぱりクソ男だ。
攝津正 06:55 11/10/2011 パーマリンク
自分は同性愛なので非婚(非制度婚)でしかありえません。「事実婚をも拒否し、在家にして出家を希望するなかまたちよ」というのは具体的にはどういうことですか? Aセクとか?
noiz 21:28 11/10/2011 パーマリンク
ほんらい出家とは家(家庭)をすてて仏門に入ること。なので「在家にして出家」とは語義矛盾もはなはだしいのですが、「家庭を持たない」生き方によってひとり滅び(悟りとしての寂滅などではなく字義どおりの滅亡)への道を歩む方図もあるのではないかとの思いを表した独語です。滅びこそ救済。といったらまずいか。
この文脈でいえばAセクもまた世間にありながら「ほぼ出家」状態への指向になるでしょうか。ただ、ここでことがらをセクシュアリティに局限すると話が狭まりますね。
攝津正 23:37 11/10/2011 パーマリンク
noizさんというひとも不思議なひとで、アナーキストだからラディカルに政治的なのだろうとおもうのですが、はっとさせるような宗教的な貌をみせるときもありますよね。以前浄土宗だったか浄土真宗だったか時宗だったかに言及したエントリーがありませんでしたか? 滅びこそ救済、というのは、ときどきは自分もそう思いますが、或る意味非常に宗教的ですよね。踊り念仏の一遍とか面白いとおもうし、吉本隆明の思想全般には否定的だとしても、かれの『最後の親鸞』とかは或るていど興味深いともおもっているし、勿論吉本で親鸞わかったつもりになっちゃいけないんだろうけど。
noiz 01:44 13/10/2011 パーマリンク
仏教はアナキズム的(逆か)──などという軽口はともかく、浄土教系の運動は日本の仏教史上もっとも大衆的に展開したのだと思われるため関心がそれなりにあるのです(とくに一遍や一向の踊念仏)。人格的なつらなりからみれば専修念仏の運動は天台宗のふところから生まれたような側面もありますが、鎌倉新仏教に先立つ奈良仏教や密教の大衆性は寺院の勢力圏内における雑多な階級横断性にあるのであって、教学としては高踏的なように思われます。もちろんどんな宗派であれ「悉有仏性」(だれでも仏となる本質を持っているという考え)から出発しているはずですが、教学上も理解しやすい便法をもって大衆性をおしひろげていったのはやはり浄土教諸派でしょう。ただそうした潮流にしても性差別の桎梏からは逃れることができていないのですけどね。その意味では、幕末から維新にかけて勃興した貧民発の創唱宗教(民衆宗教)のほうがラディカルだったりします。一尊教(如来教)の喜之(きの)とか、すごいですよ。家の世襲や子を生むための母性といったものを否定するんですから。
攝津正 18:37 13/10/2011 パーマリンク
喜之って初耳です。勉強になる…。あれこれ頑張って勉強してみます。