ひとだのみの暴動という命題のこっけいをわらえ
「のれないところにはのれない。フリーライダーになるつもりもない。なら自分たちでやる」のがタダノリを恥ずかしく思うものの流儀。かりに気に入らねえデモがあるなら、デモを自分(たち)で主催して事実として凌駕すればよい。凌駕といってもここでは規模が問題なのではない。実行するための準備と合意形成の局面でどれだけまじめに力をつくしたか、という事実でのりこえてゆけばいいだけのこと。もちろんこの場合、気に入らないやつらの主張やら行動のくみたてかたを批判しながら独自にデモることになるわけだが。
だいたい現今のデモを暴動に転化したいなどという願望を無邪気にさらしてしまえば、その時点で人間のクズ(しかしクズも人間であり諸人はその権利を擁護しなければならない)だと自己宣伝しているようなもの。他人を駒として眺める習性がなければ、現今のデモに暴動の可能性を求める根性はできあがらないからだ。気のきいたふうなことをいう一見の競争に淫してばかりいると、他人を操作対象としてとらえたうえでの暴動妄想をたれながすことができるようになる。しかしそれでは工作者としてはもちろん失格であり、現今の届け出のデモに対して過剰な期待をかける醜態をさらすことで状況認識のあやまりを自ら暴露することになる。暴動は状況ぬきに編成できるようなものではない。暴動状況の現出にむけての工作は、別の目的で集まっている現今のデモ参加者を道具としてとらえることではない。そもそも工作が可能なのかどうかを疑うところからはじめるべきである。
暴動、自分ですればいいじゃん。無届けデモも自分でやればいいじゃん。だまってやればいいじゃん。他人を操作対象と見るテイタラクで、去就をともにする一味同心をえられるわけもない。届け出デモの本質のひとつに、法秩序=制度的暴力の内側に入っていく官許のデモなのだという性質があることを認識できないようでは、支配的秩序の暴力の庇護のもとにいて暴動を夢想するこっけいさも自覚できない。
攝津正 23:51 19/06/2011 パーマリンク
Twitterでnoizさんが言及しているのとたぶん同じ発言を読んだとき嫌悪感があった。うまく言葉にはできないけれど、敢えて言ってみれば、まず、自分がひどい目に遭うことを想定していない。また、他人ならひどい目に遭ってもいいのかという問題がある。なんとなく安全圏から発せられたお目出度い状況論のように思えていやだった。