今さらだけど差別・排外主義にNO! 9・23行動
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noiz
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noiz
この日本においてさえパンクは日本人の占有物ではない。ライブハウスに行け。公民館に行け。市民センターに行け。公園に行け。街頭に行け。そうすればたしかに在日朝鮮人を筆頭として、日本人以外の在日○○人のパンクスは多いということを日本人は知るだろう。在日○○人のコミュニティでパンクは一つの磁場を形成しさえする。移住労働者の子供にとってパンクはひとつの精神的支柱とさえなる。だからHxRxPx 9.11 声明を読んでいると、泣けてくる。いったいどれだけの日本人パンクスが日本人以外のパンクスを見ないようにしてきたのか。ふれないようにしてきたのか。むしろ陰口をたたくやつがどれだけいるか。だけどおれみてえな日帝本国人が泣いたってなんにもならない。怒りを持続しよう。
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noiz
池袋の集会終わる
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noiz
そう、覚悟して「差別者を差別する者になる」ことはあるよな、と思うんだ。で、なおかつ自分もまた「差別するがゆえに差別される者」でありうるのだとの自己反省が常に必要じゃないかとね。
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noiz
差別者とは自分だなどといったそばから、差別者を差別するのは当然だろうとも思うのであった。つまり、差別者の差別待遇が必要と考えるのである(わたしなどがいうまでもないが、「ヘイトスピーチ」「ヘイトアクション」を「クライム(罪)」化するなど)。そもそも差別者をまともに人間なみに扱おうというのが間違いなのだが、そうだとしても差別者の最低限の「人権」をも防衛するのが人間の責務であって、レイシストどもがタイーホされたからといってにわかにはしゃぐ卑怯者どもの心根も同時に撃つべきだと考えるがいかが。レイシストもまた人間になりうる。人はみな生まれたときは人間ではないのだから、この可能性を予断で摘みとる必要はない。だからこそ差別者を弾圧するのである。なんかエラソーだな。しかしもちろんここでいう弾圧とは、さしあたり言論・行動あらゆる領域で差別者連中のタワゴトと行動を粉々に打ち砕く闘いのことで、日本の腐りきった警察・検察・裁判所の三権分立タテマエウツソキオダンゴ権力に売り渡して手を叩いて喜ぶことではない。しかも、日本国家および社会が差別者を人間扱いしているだけでなく、入管体制を筆頭に国家そのものが憎悪犯罪をくりかえしつつ(非白人の)「外国人」への偏見と差別を煽っているため、差別者弾圧の闘いとともに入管体制打倒の闘いが必要であるのだ。ってまたお前はいうだけの……
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noiz
差別・差別者への憎悪は、自分もまた差別者である/でありうるという自己認識から出発するものでなければならない。むしろ自らもまた差別者である/でありうるからこそ差別を激しく憎悪するのだ。人ごとのようにグチャグチャいってんじゃねえ。差別者を糾弾し攻撃するってことは、同時に自分への糾弾・攻撃でなければならないとどうして自覚することができねえんだよバカタレ。だから華麗ななんとかイスト・イスト気取りってえのは信用ならねえし信用されねえんだよ。「差別を糾弾する自分」に酔いしれてんじゃねえよアホ! 差別者は自分だっていえ!
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noiz
芝公園23号地にて
ヤボ用がはねたあと、ただデモ(朝鮮学校差別を許さない!「高校無償化」即時適用を求める市民行動)に参加するつもりで芝公園に行ったら某氏に見つかって腕章をわたされました。「荷物あるんですけど…」「宣伝車両に預けて」「へい」と、そのままデモに。湿度が高くうだるような暑さだったけれど、生徒たちのシュプレヒコールはそれにまさる熱気がありました。銀座をぬけた先に、日の丸をかかげ罵声をあびせる一団あるも、デモ隊は負けずにシュプレヒコールをくりかえして整然と行動を貫徹。主催者発表でデモ参加者は1200人といっていたと思います(もう記憶があいまい)。ていだんをいくつかにわけていたくらいですから、たしかにそれくらい集まっていたかなという感想。
攝津正 21:45 06/09/2010 パーマリンク
Twitterで、東浩紀らの「ホモネタ」ツイートを私が批判し、東らが私をブロックするといったことがありました。このような場合も、差別者を糾弾し攻撃すべきではないのでしょうか?
noiz 06:22 07/09/2010 パーマリンク
自らの行為については自身でお考えください。ここでは差別を糾弾する人間でさえ無謬ではないのだといいたかっただけなので。
攝津正 11:19 07/09/2010 パーマリンク
自分で考えろとのことなので考えた結論を言いますが、私の言動には一切問題がなかったと思います。どんなマイノリティも、他のマイノリティとの関連ではマジョリティであり得るし、様々な次元でマイノリティが存在するという現実からは、「差別者は自分」となる可能性もあるのですが、それはあくまで可能性であって現実性ではありませんので。
noiz 11:37 07/09/2010 パーマリンク
む。最初からどうとでも取れるように書いたのでわずらわせたかな。具体的に他者の言動に差別をみとめて批判することを控えろというつもりではないのです。相対主義で差別を軽くしようとか、なかったことにしようとか、それこそ唾棄すべき差別の上塗りだと思います。現実にある差別を糾弾することと、可能性としての「内なる差別」がおなじ位相であたかも相殺されるべきもののように展開してんじゃねえかよ…と読めるのだとすれば、それはわたしの精進が足りないせいでしょう。
攝津正 12:01 07/09/2010 パーマリンク
Twitterでのグリルドチーズ願望さんとのやりとりを読みましたが、私は同意できませんでした。自らを「ジェンダーやくざ」「フェミナチテロリスト」でいいと開き直るあり方に賛同できません。noizさんやグリルドチーズ願望さんの思想や言説は徹底的なアナーキズムですが、私はそれに賛成できないのです。私は「自由主義者」です。
攝津正 12:03 07/09/2010 パーマリンク
というか差別といっても多様なわけで、民族差別なのか、障害者差別なのか、性的少数者差別なのか、……等によっても変わってくると思います。
攝津正 12:06 07/09/2010 パーマリンク
私は、日本人/精神障害者/バイセクシュアルなので、在日朝鮮人、身体障害者、知的障害者、トランスジェンダー等には差別者の位相に立つ「可能性」はあります。どんな立場でも、さらに弱者があり、貧しい者がいるからです。
noiz 12:36 07/09/2010 パーマリンク
グリルドチーズ願望さんとのやりとりはむしろ偶発的です。このメモは、差別者を糾弾して己を問わない自らのありようへの戒めであるわけです。たとえば民族差別なら、ただ単に例の「在特会」などを叩いていればいいわけではなく、差別を内包する社会に埋没していこうとする自分もまた同時に問わなければならないのだと。完全に社会から孤絶した自給自足の世捨て人ならともかく、人はどのようなかたちであれ社会と分離しては生きていないのですから、いかなる差別であれ差別が社会のなかに存在するとき、自らもまたその差別と無関係ではありえない。だからこそ差別糾弾は同時に自らを問うことにもなるのだと考えるわけです。もう、繰り言ですね。
ところで、わたしは「差別者を差別する」ことを条件付きで是としますが、「ナチ」自称には賛成しません。ただ、そうした修辞がなぜでてくるのか、ということについてはやはり考えざるをえません。圧倒的なヘテロ社会における「フェミナチテロリスト」自称とは、マジョリティの自覚もないマジョリティに攻囲されるなかでの「やられたりやりかえせ」の表明──つまり絶望的抵抗の覚悟ではないかと思えるからです。勝手に読み込みすぎなのかもしれませんが。
noiz 12:55 07/09/2010 パーマリンク
われながら後出しジャンケン的エクスキューズだなぁと思うのだけど、差別の多様さに対する攝津さんの注意喚起に留意したい。とある差別に対して、また異なる差別をもってきて、それぞれの差別の犯罪性をおおいかくすような愚劣なマネはしたくないのですが……ひょっとしてそう読めた? だとしたらまさに精進が足りない。
noiz 13:54 07/09/2010 パーマリンク
しつこいようだけど、グリルドチーズ願望さんがいっているフェミナチってフェミニストを蔑視する他称の言葉しとて出てきたものだよね(間違っていたら訂正してください)。そうした蔑称をあえて引き受ける意気について、やはりいろいろと勝手に考えてしまう。チンコ☓マンコ合体オンリー主義がデフォルトの社会にいると。
攝津正 19:29 07/09/2010 パーマリンク
>しつこいようだけど、グリルドチーズ願望さんがいっているフェミナチってフェミニストを蔑視する他称の言葉しとて出てきたものだよね(間違っていたら訂正してください)。
そうですよ。フェミナチv.s.バックラッシュというふうに表象される。という場合、やるべきはフェミナチテロリストを自称する絶望的抵抗ではなく、フェミナチかバックラッシュかという二者択一の拒否なんじゃない?
攝津正 19:53 07/09/2010 パーマリンク
グリルドチーズ願望さんの絶望者のみが持つ思想的・実践的な鋭さは認めますが、私はその絶望を共有していないのです。まだどこかで、話せば分かる、と思っている(願望)。多様性に配慮した優しさのようなものが可能なのではないかと夢想している。勿論全ての領域全ての次元の少数者に気遣うことは物理的にも不可能であるにせよ、なるべく差別しないように気をつけるくらいのことはできる。だからどうだ、ということはないのですが。別に自分が免罪されていると言いたいわけではないですが。
私が言いたいのはnoizさんやグリルドチーズ願望さんの発言にある、自己否定の論理が有効なのかということです。何か他者なり社会に向けて発言するなら己を省みるべしというのは一般的に言えるかもしれないけれど、過剰で過激な自己否定が必要なのか。
攝津正 19:59 07/09/2010 パーマリンク
私とnoizさん・グリルドチーズ願望さんの間には(noizさんは批判的ですが)デヴィッド・グレーバーのいうような「訳通不可能性」があるのです。グレーバーがいうのは、それがあっても共に語ったり連帯できるということですが、私もそう思います。
グリルドチーズ願望さんが誰なのか、おおよそ見当は付いています。以前恐らく、憲法について議論して、かれは改憲(勿論ラディカル左派的な意味での)、私は護憲ですれ違ったはず。かれは私にすごく批判的なはず。だからTwitterでもフォローしてこないし、@付きで話し掛けても応答しない。しかし、かれはかれの道を行き、私は私の道を行くという以外、ないように思います。
noiz 00:48 08/09/2010 パーマリンク
あ、「絶望的抵抗」ってのはわたしの勝手な捉え方なので、あくまでグリルドチーズ願望さんの自称がどのような意図によるものかは未知なんです。なんだか勝手にイコン化して引っ張りまわしているような気がするので、これ以上は控えます。
わたしはどちらかというと後ろ向きの発想をしがちなので、たしかに「多様性に配慮した優しさ」を基軸に「連帯」を指向する攝津さんとの「訳通」は困難かもしれません。でもこの困難さは絶対的な通交不能状態だとも思いません。すれ違ったままとはいえ、こうしてやりとりすることが可能なわけですから。