日雇い・野宿労働者運動の夏祭りや越年越冬闘争はフェスティヴ(祝祭的)でありうる。とはいえ、公共地に〈私〉をもちこんで「占拠」するかたちで生存を確保せざるをえない人々の立場からすれば、公園そのものが「フェス公共圏」として再構築されたとしても、そこからも逸脱せざるをえない位置に留まりつづけることを見落としてはならないと思う。支配的な「公共」から排除された日雇い・野宿労働者の紐帯は、ときに祝祭的な機会をとらえることがあるにせよ、かれ・かのじょらは「つねに、そこにいる」から。日常として公園や公共空間に起居することじたいは祝祭ではなく生存そのもの。生は私的なものと公的なもののが重層したものといえるけれど、だからといって公的なもののみに衰減できるわけではない。宿りが「不法占拠」として嫉視されるゆえんは、私的所有の論理を揺るがす〈私=公〉の越境が無宿に宿ることにある。つまり一時滞在ですむレギュラーな公園利用者が想定する〈公〉と、生存のために占拠者とならざるをえない人々の〈私=公〉は重なりながらもズレざるをえない。これは「よわいもの」をめぐる認識のズレにもつながると思う。
(つづくかも)