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  • noiz 02:55   24/07/2011 パーマリンク | 返信
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    もともと非合法だった労働運動 

    労働運動・労働組合はもともと非合法だった。団結権でさえ埒外にうっちゃられつづけたのだから争議が弾圧されるのはあたりまえ、という労使関係史を日本は誇る。もちろん誇るのは資本家とその走狗で弾圧の下手人を務める公安警察・公安検事である。戦前風にいえば、内務官僚─特高警察─思想検事の資本家応援団こそが労使関係の死命を制するわけだが、応援団席にはしばしば裁判官の顔も見える。権威主義体制であれ「民主的」体制であれ、その構造に変わりはない。

    非合法といえばまず明治新政がもたらした結社禁圧の法制にふれないわけにはいかない。集会条例(1880年4月)─集会及政社法(1890年7月)─治安警察法(1900年3月)である。とくに治警法の第十七条・第三十条は労働者の組織的運動や争議を未然に防止する目的でつくられたもので、労働組合死刑法とも批判された。実際に第十七条によって弾圧された争議は存在する。

    第十七条 左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀シ又ハ第二号の目的ヲ以テ他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス

    一 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ協同ノ行動ヲ為スヘキ団結ニ加入セシメ又ハ其ノ加入ヲ妨クルコト

    二 同盟解雇若ハ同盟罷業ヲ遂行スルカ為使用者ヲシテ労務者ヲ解雇セシメ若ハ労務ニ従事スルノ申込ヲ拒絶セシメ又ハ労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ若ハ労務者トシテ雇傭スルノ申込ヲ拒絶セシムルコト

    三 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ相手方ノ承諾ヲ強ユルコト耕作ノ目的ニ出ツル土地賃貸借ノ条件ニ関シ承諾ヲ強ユルカ為相手方ニ対シ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スルコトヲ得ス

    第三十条 第十七条ニ違背シタル者ハ一月以上六月以下ノ重禁錮ニ処シ三円以上三十円以下ノ罰金ヲ附加ス使用者ノ同盟解雇又ハ労務者ノ同盟罷業ニ加盟セザル者ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スル者亦同シ

    両条文を削除するかわりに新設されたのが暴力行為等処罰に関する法律と労働争議調停法である(1926年4月)。前者が労働争議、小作争議、水平社の糾弾闘争の弾圧を目的としていただけでなく、内務省・警察による団体交渉への介入という既成事実を後者が法制度化した。暴処法・労調法公布の前年には治安維持法が男だけの普通選挙(これを普通というのだから帝国主義とはなにかが知れよう)実施とだきあわせで新設されている。ようするに弾圧法の整備に万全を期すのが帝国主義とその官僚なのである。

    なお、暴処法制定と同時期に官僚によって制定が企図されていた労働組合法は、団交権・争議権を禁圧するだけでなく団結権すら主務官庁(大臣)の判断にゆだねるという笑うべき規制法であった。資本家側はこのように法案を骨抜きにするだけでは安心できず、常に制定反対の運動をくりひろげた。国家官僚はこれに負けてついに労組法を制定することはできずに戦時体制へと突入した。戦後の労働法制の整備はもちろん半分以上はGHQ軍政の都合による。日本なんてだいたいこんなもんだ。

    というわけで、官になにか期待するのがそもそもの間違いなのだという歴史的経験の把握からはじめよう。

     
  • noiz 22:43   06/05/2011 パーマリンク | 返信
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    名著『無縁声声──日本資本主義残酷史』をあらわした平井正治さんが2月に亡くなっていた。以下、偲ぶ会をよびかけるビラのPDF。

    http://www17.plala.or.jp/kyodo/0507.pdf

     
  • noiz 22:58   22/03/2011 パーマリンク | 返信
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    大正時代の米騒動は鈴木商店(日商岩井の前身)を焼き討ちして終息した」などというのは歴史の歪曲である。1918年の米騒動は神戸におわるものではなく(はじまったのは神戸でもない)、鈴木商店本店が焼きはらわれた8月12日以後も騒動は各地で激発した。高見に立ったつもりでえらそうなことをくっちゃべるまえに基礎的な学習くらいしやがれボケ。

     
  • noiz 23:39   04/01/2011 パーマリンク | 返信
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    大畑哲先生なくなっていたのか。

     
  • noiz 22:20   03/12/2010 パーマリンク | 返信
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    社会運動における発言と記録という分業についての雑感 

    社会運動のなかで遂行される役割分担(=分断)は、性別分業と密接に関連するものであることはごまかしようのない現実だ。とりわけ発言と記録という役割の争奪戦で男性がほとんど勝利してきた史実は誰にも動かせない。

    そのことは近代以後の近代的運動だけではなく、前近代的な民衆運動の歴史についてもいえる。たとえば1918年の米騒動にしても、その着火点となった魚津などの富山一帯の騒動は別名「女一揆」と呼ばれるほど女の活躍がめざましく、それは近代という時間にありながら前近代的な大衆蜂起の伝統に連なるものであったが、直接行動にでた女たちの一群をとらえて新聞が「女房軍」とはやしたてたように、女一揆の女たちは出稼ぎで遠くにいる漁師たちの「妻」「母」としての役割から集団で騒動を起こしたのであった。女たちは「留守を預かるもの」として一揆を結んで決起した。当然ながらそこには農山漁村における前近代的な下層の「家」の秩序が反映されており、行動そのものが支配的な経済秩序に抗するものであったにせよ、「家」内部でかたちづくられる分業とその秩序を打破するものではなかった(まごつく在地の男たちをよそに走り回った進取の気風は見逃せないのではあるが)。そしてこの運動について記録し総括しあとにのこしたのは、やはりほとんど男たちなのだ(1)。なぜ、そうなのか。

    しかしまた、「発言と記録に勝利する男」が男のうちほんの一握りの存在にすぎないのも事実だ。背後にはやはり屍累々の屍の残骸である男の亡霊が無言でたたずんでいる。社会運動の発言と記録とをとらえてあえて性別分業によるもの規定するからには、「男/女」の分業と「男/男」の分業をも措定しなければ現実の話としてひびいてこない場もありえよう。さらに手柄顔に運動について語りながらやはり最後まで語るだけという「理論家」や「思想家」はごまんといるが、この手合いは「男/女」に関係なく存在する。現場にいもしねえのに見てきたように調子こきゃがる発言は、なにも男だけから飛び出すものでない。傲慢な人々はどこにでもいる。

    性別分業の問題には、「男/女」や「男/男」だけでなく「女/女」の分業も数えなければならない。調子をこきまくる一握りの男とそうでない多数の無告の男、調子をこきまくる一握りの女とそうでない多数の無告の女という、同性間における「別」をも設定しなければならない。この「同性間における別」は性差を超越した個人的な特質には還元されない。つねに一定数の人々がこうした役割を要請される差別の構造が、社会を映しとるものとしての運動体内部にも存在するに違いないからである。ようするに、ここでいう「同性間における別」の「別」とは階級分化のことだ。

    「裏方のしごと」(「調整」だったりその他「実務」だったり)は裏方が語ればよい。またそのしごとゆえに存立する運動の歴史については、やはり裏方が総括して提示すればよい。それ以外の二次的な創作物としての運動史は話半分くらいに扱えばよい。二次的創作物にも一定のはたらきがあるとはいえ、基本的には、沈黙する圧倒的多数の活動者たちを搾取する「商品」だからだ。つまり、運動現場にかかわらないが運動の「果実」にはむらがる口八丁やアカデミズムにたてこもるだけの学者が、たまたま社会のかたすみに残された瀕死の言葉だけを収集して運動史を創作しているさまを特別ありがたがる必要はない。

    だがそうして肩をすくめてみせるだけではすまない。買い手の限られる運動史商品はまずもって燃えカスのブレンドにすぎないのにもかかわらず、灰をこねてつくった泥人形が人間であるかのような販促がいけしゃあしゃあとくりかえされ、それを無批判にありがたがる人々がいる。泥人形は必然的にこねるものの意識を投影するだけの存在にすぎないが、それこそが歴史なのだと喧伝され受容される。そうして人々の残骸を編集しつくられた青史がいつのまにか公式の歴史として正当性を獲得してゆく。まさに死人に口なしである。この青史の喧伝と受容の責めは「われわれ」こそが負うべきである。そのような破廉恥の野放しは、社会運動体(と呼べるものがあればだが)と個々の主体の力量のいたらなさをまつものに違いないからである。まるで当たり前のことにすぎないが、「われわれ」自身のうちに宿るこうしたコケオドシの権威主義を点検し撃ちつづけようとすることが、分業の流動化に必要な前提作業となる。裏方こそが同時に表方となる闘争が必要なのだ。

    したがって「われわれ」は、幾千幾万幾億もの「女一揆の女たち」、あるいはたとえば女としての被差別と被抑圧を受苦しつつ三里塚で生き抜いて死んだ「大木よね」の声を聞き、「もうおらのみはおらのみのようであって、おらのみでねえだから」(2)との不退転の覚悟で戦闘宣言を発した「大木よね」──「女たち」そのものにならなければならない。つまり「男」なら「おらのみ」=「男性として特権的な身体性」をかなぐりすてて、身にまとわりつく権利を共同所有のものとしてつくりかえなければならない。私的権利は社会的な権力を源泉としながらついに「おらのみ」に収斂するから、これを廃絶しようとすれば当然にも権利への対しかたを問題にしなければならない。そのためにはまず自らの特権がどうあるかを探り、その破壊の糸口を探求しなければならない。三里塚闘争における援農は、この問題への手がかりを与えるものであるだろう。

    そしてそのうえでなお「われわれ」自身が記録者になるとともに同時に活動する者とならなければならない。民衆史あるいは社会運動史は、自らもそこにいる現場を対象としてつむぎだす、ほか誰のものでもない「われわれ」自身の創作物でなければならないのである。誤りを怖れる必要はない。それは前後左右に存在する自分以外のものが糾していくはずだからである。そして指摘されうべき誤りが誤りとして認められるときには、躊躇することなく指摘への合意を示し、そうしてえられる認識の変化を自らに往還させればよい。そしてこうした点検は相互的なかたちによってしかなされえないであろう。「われわれ」と主体を措定するゆえんである。部分的にであれ、他人のなかに自分がいる。そうとらえるのでなければ社会運動を記録し、そしてその記録から歴史をつくることなどとうていできはしない。

    蛇足だが、かかる不確かなかりそめの共同行為においてのみ、分業の勝者でありがちな男は男としての形質をそうでないものへとたたきなおす契機をつかむ──かもしれない。

    (1)全国的な1918年米騒動研究の古典となった『米騒動の研究』は男たちの手によった。民衆史の観点から画期をなすつい最近の『女一揆の誕生 置き米と港町』(桂書房、2010年11月)の著者もやはり男性である。
    (2)ウィメンズアクションネットワーク(WAN)がこのことばを引きながら、「大木よねさんは戸村一作さんとならぶ三里塚闘争の英雄」としているが、なぜこのような英雄史観をてらいもなく語るのか。しかも闘争の代表的存在を措定し、それに「ならぶ」とごていねいにも序列を示唆しているが、よねはあくまで「男に伍す女」としての「英雄」でしかなかったのか。この短いテキストのなかでさえ性急に行われる毀誉褒貶はなにを意味するのか。よねはもちろん「英雄」ではない。三留理男らが形容したように、大木よねは貧者としての鬼であり夜叉であった。 鬼であり夜叉である様相は、強大な政治的・社会的権力に対してのものであることはいうまでもない。よねは強制代執行で機動隊に襲撃されたとき、ジェラルミンの盾を水平打ちに顔面に打ち込まれ歯を叩き折られた。このときのよねの「鬼の形相」は、まさに殴られても蹴られても踏みにじられてもついに屈することのない底辺民衆の「顔」をあらわにしたものであったと記録された。
     なお、ともに三里塚で闘った人物による以下の回想がある。加瀬勉「大木よね婆さんと共に戦って 寄稿・三里塚闘争覚書 〔上〕」(労働者共産党編『プロレタリア』第486号)、加瀬勉「人として生きたい、だから闘い抜く 寄稿・三里塚闘争覚書(下)」(同前『プロレタリア』第487号)。

     
  • noiz 18:45   15/11/2010 パーマリンク | 返信
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    日曜は日曜でぶっちぎって神奈川県立公文書館。困民騒動取り締まりのため天保7年に関東取締出役が発給した御触書に対する村民側の請書を携帯のカメラで撮影(でも未訓練で達筆読めず)。天保の大飢饉は相州にも例外なく動揺をもたらした。前にも書いたが、困民党とは近代における固有名詞であるまえに幕藩体制下の窮民の徒党としての一般名詞だった。その最大最後の飛躍的爆発が幕末の世直し一揆だと思う。

    近代にさしかかっての困民党(負債農民の徒党)には「世直し」「世直り」意識は失われ、松方デフレのもとで突破口をみいだすことができない過渡的な即物的抵抗として「自儘(我儘)」の金貸しを撃つ意志が表明された。困民の運動は現象としては疾風怒涛の動きを見せるわけだが、暗い影がつきまとった。そのもっとも悲惨なあらわれが債主殺害におよんだ露木騒動(1884年5月15日)で、後続は死の影を金貸したちへの脅迫に利用して歩いた。そうして相州南西部の負債農民騒擾は条件闘争としての成果を一定獲得して終息していく。

    さらにその後につづいた武相国境にまたがる7郡150ヶ村からなる年賦党(いわゆる武相困民党)の運動は請願という穏和な戦術をとったが、強硬な県令に阻まれ得るものもほとんどなく終わっている。結党を主導した須長漣造(谷野村戸長)の末路は行商のすえの行きだおれである。たしかに武相困民党は豪農層が指導部をかたちづくったが、大衆的示威行動の実体である小前百姓は「所有・営業・契約の自由=自儘」を撃つ近代否定の論理で動いた。近代的自我はそこにはたちあがっておらず、むしろ憎悪されている。まさに「時代遅れ」。指導者層の交渉をよそに対県庁抗議行動にうってでたのはこの小前衆だった。借金減免調停の要請を容れずに弾圧をもってこたえる県政は公儀にあらずというわけである。もちろんこうした貧農・半プロ層の展望なき胎動を民権運動などに位置づけることは難しい。この時期の貧農の運動が近代の曙光に対抗しようとしていたことの意味はあまりにも大きい。わたしは「時代遅れ」たちにひきつけられている。

    というわけで?露木事件の大審院死罪判決論告などの史料もコピー。終日作業でぐったり。貧民にまつわる文書探索は時間を忘れるが疲れる。怨嗟の声がきこえるような気がして、正直読み込むのがつらい。分裂した階級敵どうしはやはりどうしても血にまみれなければならないのか。なお、露木事件を題材とした絵草紙『大磯新話 燧山黄金一色里(かちかちやまこがねのいしきり)』(上巻)は国会図書館が公開している。下巻は発見されていないらしい。

    風邪ひいたのかなー、なんかしんどくて賃労働がすすまない。だからってこんなメモ書いてたら仕事遅れるだけなのに。でも書けるときに書きとめておかないと最近脳みそが溶けてきているような気がして怖い。

     
    • 攝津正 21:56   16/11/2010 パーマリンク

      こういうの読むとnoizさんはフーコー的な研究者、文献学者の資質があると思います。わたしは、文芸批評家の友人に頼まれて、国会図書館に資料をコピーしにいったことがありますが、一日がかりでしんどかったです。民衆史のためならそういう労苦を厭わないnoizさんは、研究者的だと思います。

    • noiz 23:10   16/11/2010 パーマリンク

      ヘタの横好き、訓練がたりません。史料が読めないんじゃ話にならないんですよね。

    • 攝津正 23:19   16/11/2010 パーマリンク

      いや、でも地道に民衆闘争史をやろうという人がいないじゃないですか。実はわたしが知らないだけでいるのかもしれないけれども…。

  • noiz 04:35   14/10/2010 パーマリンク | 返信
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    困民党といえば秩父困民党や武相困民党が有名で、まさに固有名詞のおもむき。しかし武相両国では、1836(天保7)年にも米価高騰による困民党騒動があったことが史料からうかがえる(相模国津久井県若柳村鈴木家文書、武蔵国久良岐郡野島浦名主文書、相模国愛甲郡田代村大矢家文書)。騒動の原因が米価高騰にあったとすると、当然ながらその主体は米を確保できない貧民(貧農、半プロレタリア)以外にはない。つまり困民党とは為政者から見た「困民共」をさす集合名詞であった。

     
  • noiz 00:16   20/09/2010 パーマリンク | 返信
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    資料探索からぶり。露木事件の助命歎願書二通(活字で上下二段に組んである)をコピーしたくらい。なんと一通は殺された債主遺族が連名した歎願! この意味やいかに。日本は「明治維新」でいっきに近代化したのだとノーテンキにも思いこんでいると、社会秩序の転換と階級分化からくる共同体の苦悩を見落とすばかりだろう。しかし連判状がほんとうにあったとすれば中身が気になる。

     
  • noiz 23:19   15/08/2010 パーマリンク | 返信
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    今年のお盆はサボったついでに某図書館で見落としていた真土村事件関連の資料を探してコピー。先日の大原社研行きは十数年ぶりだったけど、こちらは一年ぶり。一年がかりではなく、一年かかってようやく資料収集の補遺をしたというわけだ。もういちど公文書館の方にも行くつもりではいるが、はたしてなんのためにこんなことをしているのか自分でも分からなくなっている。おそらく近代移行期の「民衆」になにかを見いだそうとする妄執が持続していることだけは確かなのだけれど。

     
  • noiz 09:23   10/07/2010 パーマリンク | 返信
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    家捜ししたところ、大阪新聞工組合機関誌『兄弟』の一部写しは出てきたものの、『活叫』はやはり見当たらない。以下のように記録してあったが、大原社研ではコピーをとらずにメモ書きしただけだったのかもしれない。

    ・1918年、三谷幸吉が印刷業者と労働者の親睦組織「皎友会」を組織し、機関誌『印刷の友』を発行
    ・1920年3月、皎友会、神戸市活版印刷職工組合に改組。機関誌『活叫』発行
     幹事長:三谷幸吉 顧問:今井嘉幸(法学博士)、野田文一郎(弁護士)
    ・1920年末、大阪印刷工組合と関西印刷工同盟(総同盟加盟)を結成、神戸印刷工組合と改称

    この記録を見る限りでは、大原社研には『活叫』だけでなく、皎友会機関誌『印刷の友』もあるだろうとめぼしがつく。ま、いずれ。

     
  • noiz 18:53   09/07/2010 パーマリンク | 返信
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    うかつにも全然知らずにいたが、三谷幸吉って、印刷史・活字の研究者として名をとどめていたのか。本木昌造の評伝を書いていたとなればそれも無理からぬところだろうなぁ。しかしわたしはそんなことはすっかり知らずに、たんに神戸印刷工組合の幹部という印象しかもってこなかった。なお、同組合の機関誌『活叫』は、全号そろいではないものの何号か大原社研にあるはず。学生時代に印刷工の資料を探しにいって見かけたおぼえがある。コピーをとったような記憶があるが、手元にない。こんなときに自堕落な生活をしているおのれを呪う。

    さて、東京で印刷工の運動というと、『太陽のない街』などで知られるようにボル系が文学史上でも有名だと思うが、1910年代から群小の零細工場で組織化をつづけていた人々のなかにはアナキストがかなりいた。東京印刷工組合の前身である印刷工組合信友会と新聞印刷工組合正進会が組織的紐帯であり、両組合には大杉らとともにアナキストとして活動した印刷工がいた。信友会は欧文活版工たちが組織していた組合を直接の前身としており、「明治労働運動」の系譜さえひいていたといえる。ま、そんな伝統のほじくりかえしはここではどうでもいい。

    そう、三谷幸吉のことだ。かれが神戸印刷工組合の筆頭として活躍した時期、関西地方の印刷労働運動は総同盟(友愛会)によっていたはずだ。穏健派と目されながらも賀川豊彦や久留弘三が気を吐いていた時期の関西の同盟に、組合が結集していたのだ。神戸の組合は、大阪印刷工組合とともに関西の総同盟内部で有力な職種別連合を形成しようとした時期さえある。が、のちに急進的なサンディカリズムが総同盟内部にも大きな影響を及ぼすにしたがい、多くの組合が幹部排斥・純労働者主義の旗幟を鮮明にしていき(1920年代には「純労働者」という言葉があったのだ)、この波頭は関西の印刷工運動にも波乱をおよぼし、アナ系の台頭さえみられた。はしょるが、大阪ではアナ・ボル・穏健派の三派鼎立時代さえ到来するのだ。では神戸はどうかといえば、団結が強かったためかめだった分派はみられない。

    また脱線した。そう、三谷幸吉のことだ(二度目)。労働運動史では神戸印刷工組合で活躍した人……ともじつは記録されていないのだが、uakiraさんがふれておられるように、小野寺逸也「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」(『神戸の歴史』第23号、第24号)にその足跡がまとめられている、らしい。不勉強でわたしはこの文献は未読なのだが、労働運動家としての三谷の活動は当時の新聞でも若干たどることができる。手抜きをするなら、神戸大の戦前新聞資料の検索サービスを使えばよい。たとえば「三谷幸吉」で8件、「神戸印刷工組合」で16件の記事がひっかかってくる。なんて便利な時代になったのかと感慨ひとしおだが、三谷たちの活動のユニークさはたとえばこんな記事で知ることができる。

    新聞記事文庫 出版印刷業(02-002)
    大阪朝日新聞 神戸附録 1921.3.17(大正10)

    資本家抜きの印刷株式会社
    資本金一万円で出来る
    強欲な資本家に皮肉な手本

    神戸印刷工組合にては今度組合員の出資によって印刷株式会社を起すこととなり十五日湊東倶楽部に於ける役員会に於ても満場大賛成にて目下十名の創立委員を挙げて具体案に就き攻究中であるが委員は二十五日午後七時より兵庫羽坂通二丁目三谷幸吉氏の宅で第一回の委員会を開くこととなって居る委員の一人は語る
    会社創立の主たる趣意は一は今日の資本家が労働条件の改善に付経営上の立場から兔角反対すので我々労働者自らが会社を経営し資本家に対する模範をなし且つ失業救済の見地から同業職工の失業者を収容し徹底したる相互救済の途を講じ度いと思うのである云い尚会社の資本金は総額一万円一株二十円とし株主は専ら組合員中より募るべく今井嘉幸博士、代議士野田文一郎、小寺謙吉の諸氏は右組合に対して因縁浅からぬ関係上委員より右計画に就き近く賛同を求めることとなって居る

    データ作成:2002.7 神戸大学附属図書館(記事URL

    これ、ようするにいまでいうワーカーズコープ(労働者協同組合)だ。従来の労働運動史ではこの先駆的意義については十分に論及されていないと思う(おそらく事業としては成功しなかっただろうからこそ運動史の記録からもれたのだとも思われる)。やるぜ神戸印刷労働者。

    三谷は印刷工組合にひきつづき、「資本家抜きの印刷株式会社」でも中心的役割をはたしたようだ。この労働者協同組合(もしくはギルド)がどのような経緯をたどったのかは分からないが、のちの報道をみてみるとそれなりのかまえで出発しているようだし(大阪朝日新聞 神戸附録 1921.3.27)、「娘や少年も混じる株主席」といった船出が報じられたりもしている(大阪時事新報 1921.10.26)。すでにuakiraさんが概括されているので関心ある向きはそちらを参照されたい。

    三谷幸吉がどのように「運動」に挫折して辞去してゆき、「印刷史の記録者」となっていったのか、その経緯は分からない。

    うーむ、暇見つけて大原社研行くか。でも平日は労働でダメだ。土曜は午前中なら開いているようたが、今週末は予定があるからそれ以降になる。

     
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