anarchopunkは民族派だの天皇を尊崇するだのという人間と席を同じくしない。旗幟を明らかにすることが「大衆」を「運動」から遠ざけるといいつのる人々は、そうすることで自分とは異なるものとして措定した「大衆」を蔑視し愚弄しているザマを自ら暴露する。しかし「大衆」であれ誰であれ人はみな他人のものの考え方や持っているイデオロギーのなかみを見抜く力を持っている。たとえ明確なことばでそれらを定義することがなくても、誰しも人がけっして同じではないこと、同じではありえないことを理解しているのである。そうしてそれぞれがすべてにおいて選択してゆく。生活とはつまりそういうことだ。八方「美人」こそが「動員」にとって最大の武器なのだと無意識のうちに勘定する運動官僚たちは、いったいなにを怖れているのだろうか。バラバラにやればいいのだ。
タグ: 社会運動 RSS コメントスレッドの表示 / 非表示 | キーボードショートカット
-
noiz
-
noiz
-
noiz
社会運動における発言と記録という分業についての雑感
社会運動のなかで遂行される役割分担(=分断)は、性別分業と密接に関連するものであることはごまかしようのない現実だ。とりわけ発言と記録という役割の争奪戦で男性がほとんど勝利してきた史実は誰にも動かせない。
そのことは近代以後の近代的運動だけではなく、前近代的な民衆運動の歴史についてもいえる。たとえば1918年の米騒動にしても、その着火点となった魚津などの富山一帯の騒動は別名「女一揆」と呼ばれるほど女の活躍がめざましく、それは近代という時間にありながら前近代的な大衆蜂起の伝統に連なるものであったが、直接行動にでた女たちの一群をとらえて新聞が「女房軍」とはやしたてたように、女一揆の女たちは出稼ぎで遠くにいる漁師たちの「妻」「母」としての役割から集団で騒動を起こしたのであった。女たちは「留守を預かるもの」として一揆を結んで決起した。当然ながらそこには農山漁村における前近代的な下層の「家」の秩序が反映されており、行動そのものが支配的な経済秩序に抗するものであったにせよ、「家」内部でかたちづくられる分業とその秩序を打破するものではなかった(まごつく在地の男たちをよそに走り回った進取の気風は見逃せないのではあるが)。そしてこの運動について記録し総括しあとにのこしたのは、やはりほとんど男たちなのだ(1)。なぜ、そうなのか。
しかしまた、「発言と記録に勝利する男」が男のうちほんの一握りの存在にすぎないのも事実だ。背後にはやはり屍累々の屍の残骸である男の亡霊が無言でたたずんでいる。社会運動の発言と記録とをとらえてあえて性別分業によるもの規定するからには、「男/女」の分業と「男/男」の分業をも措定しなければ現実の話としてひびいてこない場もありえよう。さらに手柄顔に運動について語りながらやはり最後まで語るだけという「理論家」や「思想家」はごまんといるが、この手合いは「男/女」に関係なく存在する。現場にいもしねえのに見てきたように調子こきゃがる発言は、なにも男だけから飛び出すものでもない。傲慢な人々はどこにでもいる。
性別分業の問題には、「男/女」や「男/男」だけでなく「女/女」の分業も数えなければならない。調子をこきまくる一握りの男とそうでない多数の無告の男、調子をこきまくる一握りの女とそうでない多数の無告の女という、同性間における「別」をも設定しなければならない。この「同性間における別」は性差を超越した個人的な特質には還元されない。つねに一定数の人々がこうした役割を要請される差別の構造が、社会を映しとるものとしての運動体内部にも存在するに違いないからである。ようするに、ここでいう「同性間における別」の「別」とは階級分化のことだ。
「裏方のしごと」(「調整」だったりその他「実務」だったり)は裏方が語ればよい。またそのしごとゆえに存立する運動の歴史については、やはり裏方が総括して提示すればよい。それ以外の二次的な創作物としての運動史は話半分くらいに扱えばよい。二次的創作物にも一定のはたらきがあるとはいえ、基本的には、沈黙する圧倒的多数の活動者たちを搾取する「商品」だからだ。つまり、運動現場にかかわらないが運動の「果実」にはむらがる口八丁やアカデミズムにたてこもるだけの学者が、たまたま社会のかたすみに残された瀕死の言葉だけを収集して運動史を創作しているさまを特別ありがたがる必要はない。
だがそうして肩をすくめてみせるだけではすまない。買い手の限られる運動史商品はまずもって燃えカスのブレンドにすぎないのにもかかわらず、灰をこねてつくった泥人形が人間であるかのような販促がいけしゃあしゃあとくりかえされ、それを無批判にありがたがる人々がいる。泥人形は必然的にこねるものの意識を投影するだけの存在にすぎないが、それこそが歴史なのだと喧伝され受容される。そうして人々の残骸を編集しつくられた青史がいつのまにか公式の歴史として正当性を獲得してゆく。まさに死人に口なしである。この青史の喧伝と受容の責めは「われわれ」こそが負うべきである。そのような破廉恥の野放しは、社会運動体(と呼べるものがあればだが)と個々の主体の力量のいたらなさをまつものに違いないからである。まるで当たり前のことにすぎないが、「われわれ」自身のうちに宿るこうしたコケオドシの権威主義を点検し撃ちつづけようとすることが、分業の流動化に必要な前提作業となる。裏方こそが同時に表方となる闘争が必要なのだ。
したがって「われわれ」は、幾千幾万幾億もの「女一揆の女たち」、あるいはたとえば女としての被差別と被抑圧を受苦しつつ三里塚で生き抜いて死んだ「大木よね」の声を聞き、「もうおらのみはおらのみのようであって、おらのみでねえだから」(2)との不退転の覚悟で戦闘宣言を発した「大木よね」──「女たち」そのものにならなければならない。つまり「男」なら「おらのみ」=「男性として特権的な身体性」をかなぐりすてて、身にまとわりつく権利を共同所有のものとしてつくりかえなければならない。私的権利は社会的な権力を源泉としながらついに「おらのみ」に収斂するから、これを廃絶しようとすれば当然にも権利への対しかたを問題にしなければならない。そのためにはまず自らの特権がどうあるかを探り、その破壊の糸口を探求しなければならない。三里塚闘争における援農は、この問題への手がかりを与えるものであるだろう。
そしてそのうえでなお「われわれ」自身が記録者になるとともに同時に活動する者とならなければならない。民衆史あるいは社会運動史は、自らもそこにいる現場を対象としてつむぎだす、ほか誰のものでもない「われわれ」自身の創作物でなければならないのである。誤りを怖れる必要はない。それは前後左右に存在する自分以外のものが糾していくはずだからである。そして指摘されうべき誤りが誤りとして認められるときには、躊躇することなく指摘への合意を示し、そうしてえられる認識の変化を自らに往還させればよい。そしてこうした点検は相互的なかたちによってしかなされえないであろう。「われわれ」と主体を措定するゆえんである。部分的にであれ、他人のなかに自分がいる。そうとらえるのでなければ社会運動を記録し、そしてその記録から歴史をつくることなどとうていできはしない。
蛇足だが、かかる不確かなかりそめの共同行為においてのみ、分業の勝者でありがちな男は男としての形質をそうでないものへとたたきなおす契機をつかむ──かもしれない。
(1)全国的な1918年米騒動研究の古典となった『米騒動の研究』は男たちの手によった。民衆史の観点から画期をなすつい最近の『女一揆の誕生 置き米と港町』(桂書房、2010年11月)の著者もやはり男性である。
(2)ウィメンズアクションネットワーク(WAN)がこのことばを引きながら、「大木よねさんは戸村一作さんとならぶ三里塚闘争の英雄」としているが、なぜこのような英雄史観をてらいもなく語るのか。しかも闘争の代表的存在を措定し、それに「ならぶ」とごていねいにも序列を示唆しているが、よねはあくまで「男に伍す女」としての「英雄」でしかなかったのか。この短いテキストのなかでさえ性急に行われる毀誉褒貶はなにを意味するのか。よねはもちろん「英雄」ではない。三留理男らが形容したように、大木よねは貧者としての鬼であり夜叉であった。 鬼であり夜叉である様相は、強大な政治的・社会的権力に対してのものであることはいうまでもない。よねは強制代執行で機動隊に襲撃されたとき、ジェラルミンの盾を水平打ちに顔面に打ち込まれ歯を叩き折られた。このときのよねの「鬼の形相」は、まさに殴られても蹴られても踏みにじられてもついに屈することのない底辺民衆の「顔」をあらわにしたものであったと記録された。
なお、ともに三里塚で闘った人物による以下の回想がある。加瀬勉「大木よね婆さんと共に戦って 寄稿・三里塚闘争覚書 〔上〕」(労働者共産党編『プロレタリア』第486号)、加瀬勉「人として生きたい、だから闘い抜く 寄稿・三里塚闘争覚書(下)」(同前『プロレタリア』第487号)。 -
noiz
-
noiz
「はねかえりのブラックブロックをみたら警察とおもえ」──それじゃシアトルの闘いで重刑攻撃をくらったやつは警察のエージェントとして獄中にあり、ジェノヴァサミットでカリビニエーリ(国家憲兵隊)車両を攻撃して射殺された“リス”(カルロ・ジュリアーニ)は警官として死んだわけ? んなわけネーヨ!
街頭闘争で破壊活動が行われるといつも出てくるのが「スパイによる挑発」陰謀論。イルコモンズがトロントG20でそういう宣伝にのるとはね。非暴力直接行動に唯一の正義をみいだすのは自由だけれど、非暴力直接行動から実力行動までを包摂してなりたっている共闘をスポイルする陰謀論にはまるくらいなら、弾圧をしかけられている人らの反撃を紹介したらいいのに(*1)。同じカナダでの行動でも、2001年4月ケベックの反FTAA行動(A20)では、レッドゾーンでブラックブロック、CLAC-CASA(反資本主義結集/アメリカサミットようこそ委員会)、レッドフラッグ(マオ派の革命的共産党の青年組織)などによってかなり激しい闘いがくりひろげられ、もちろん平行してFBIやシークレットサービスもいろいろと策動していたのだけれど(*2)、このときは冷静な総括のほうが強く(*3)警察の情報活動にのせられた陰謀論はそんなに目立たなかったのになー。この反FTAA闘争では前年のプラハでの反IMF闘争での経験にならい、行動の態様によってゾーンをわけて相互不干渉とすることによって共闘を分裂させまいとする戦略がとられたが、反FTAA闘争につづいたEU諸会合、世銀会議、ジェノヴァサミットなどに対抗する2001年「欧州の燃える夏」では、やはりATTACフランスによるブラックブロック批判に集約されるかたちで「暴れるやつらが運動を破壊する」といったフレームが広がった。こうした「暴動は警察の手先によるもの」との不確かな発話ですべてを語ろうとする陰謀論は、警察の治安弾圧活動に対する社会運動の側の耐性が低下していることを示していると思う。もちろん警察からの送り込みはあるだろう。しかし一部をもって全体を決めつけるやりかたは、必然的に分断と社会運動のなかの“ピースコップス”をうみだすことになる。そのことによって利益を享受するのが治安弾圧機関であることはいうまでもない。
- 1 長年カナダやフィラスティン(パレスティナ)などで闘っているアナキストの ジャギィ・シン(Jaggi Singh) はことあるごとに弾圧されてきたが、このトロントG20でも闘争参加の「罪」でトロント警察が逮捕状を出したため出頭し、保釈されたのちも自宅軟禁状態に置かれている。それだけでなく、携帯電話の使用と「抗議行動に関係する陰謀」で逮捕されている16人との接触が禁じられている。なお、G20被弾圧者を支援するためのカンパが呼びかけられている。:5000 x 5$: Support the G20 protesters
- 2 このときの警察活動に関する記録の残骸が Cryptome で公開されている。:Montreal Independent Media Center Docs
- 3 反FTAA闘争の小括はシンディ・ミルスタインのものが参考になるだろう。:Something Did Start in Quebec City: North America’s Revolutionary Anti-Capitalist Movement
-
noiz
でも資本主義に学ぶことは多いよ。冗談抜きで。なんせ搾取しながら多数の能力を効率よく発揮させようってのが資本制組織の至上命題なんだから、手強い。「多様性」をよりよく「恊働」させる「コンセンサス」とやらにしても、利潤最大化運動のなかから出てきたものだとふまえておかないと足もとすくわれる。「ダイバーシティ・インクルージョン」なんて「お前もお前もなかよくこの利益共同体のなかにいれてやるぜー、だから適材適所でがんばって働け」ってことだから(笑)。利潤の源泉としての多様性。
-
noiz
北米発の社会運動における「合意形成」(decision making)の話って、経営組織論・マネジメント論のコピー以外になんか意味あんの? だいたいそういうのってバーナードの経営管理論やサイモンらの意思決定論からどれだけ出てるんだか。経営学者をもちだすまでもく、アジェンダがどうのファシリテーションがどうのってな方法論にしたって、そこらの経営組織論の翻訳書を見りゃうんざりするくらい説かれているわけで、なにをいまさら感ぬぐえないのよ。もちろんそういった分野での議論のくりかえしは、逆説的にいえば経営の現場でも組織化はそううまくはいかないからってことでもあるんだけど。だから合意に向けた自分たちじしんの実践を卑下する必要はないけど、少なくとも「合意形成」論議の多くが経営論の後追いでしかないってことだけはふまえといたほうがいいと思う。
-
noiz
場の専一と非編成について
さて、お香の件。もちろんお香を手渡した人間が誰であろうと、そのことが問題なのではなく、お香とともに態度を違える人間に対して高見から「落ち着いて」などと言い放つ態度を問うのである。公共空間はどうやらこの日本の社会にあっては「誰のものでもない=誰も勝手なことをしてはならない」という私有制を裏返した論理によってその存立が支えられているようであるが、その禁足の内容を指示するしるしとして粗暴さ・がさつさあたりがもっとも頻繁に参照される。ようするに「迷惑をかけるな」という恫喝のために、「〈暴れる〉こと・場を乱すことが問題」との認識への合意が動員されるのだ。では、〈大人(おとな)〉しくすること──これはそうではない他者を〈子供〉視することに通じる、そう、まさに日帝が台湾原住民を「可愛い子供」として宣撫教化しようとした態度と同根だ──が他者に迷惑をかけないための唯一の態度なのか。そうではあるまい。「迷惑をかけない」とかいうことを「正義」としてふりかざして場の平穏さを保持することを他者に要求することもまた「迷惑」でありうるからだ。場の排他的占有こそが問題なのだ。そもそも「迷惑」と感じるなかみは人によってバラバラである。そのことを踏まえずに「誰のものでもない」はずの場を占有したつもりで他者に対してあれこれと指令する態度は滑稽だ。いや、むしろ有害でさえある。行為の多様性による混沌と、混沌からはじまる議論の可能性をそこなうからである。わたしはこうした行為の唯一前衛性を拒否する。行動の場でお香をたく人もいれば、ろうそくをもって悲劇を悼む人もいれば、ドンツクドンツク唱名を唱える人もいれば、不当な規制をかける警察に文句をたれ衝突する人もいれば、とにかくシュプレッヒコールをくりかえす人もいれば、ただ黙ってプラカードをかかげて佇立する人もいる。それでいいではないか。ただただそこにあらゆる人々がいる、ということが重要なのだ。だからこそ、われわれおっかなびっくりのおっちょこちょい(軽挙妄動する輩)は、かつて寺島珠雄がうたったごとくに英雄を拒否する。
前衛でなく同盟軍でなく
無論主力ではなく
うしろに控えもせず過程に奮迅して斃れつつ
新たな過程を現出せしめる
非編成軍団擦過する
血をもてる影
の ごとき「われら」(詩集『情況と感傷』所収)だからこそ、お香を受け取っておきながら地面に叩きつけた仲間のやや乱暴な応答に、わたしは異議をさしはさまなかった。専一への対抗は英雄のものではない。唯一の正義に向かって呪詛を放つ編成されざるおっちょこちょいどもはけっして英雄たらんとして自己を組織しようとするのではない。むしろ独善的な英雄を自他のうちにみとめてこれと格闘するために、強制されようとする表面的な静謐に異をとなえ、かき乱そうとするのだ。だから寺島にならってここで「非編成」と自己組織化のありようを見定めるとき、それは場の排他的占有を回避させようとする「バラバラのままの一時的結集」をめざすものとして具体化される。つまり、われわれ軽挙妄動する輩にとってただ街頭で治安弾圧機関と衝突することが目的なのではない。組織化の方法を実践的に問い続けながら立ち、倒れ、そしてまた立ち、倒れることこそが、自己の鍛錬と一時的な集団編成の訓練に有用な過程として、手段でありながら同時に目的として捉えられるのである。そしてむしろ英雄は、他者やテンデンバラバラさを排除しながら空間の専一を生み出そうとする統一運動の表徴として現れる。しかも全方位自己販促活動のために(そんなに人に好かれたいか!)英雄が要請され輩出されるのだ。運動による運動のためと称する運動の搾取。そんなものは、クソ、クラエ。
-
攝津正
お香の話で思い出したんですが、『ネオリベ生活批判序説』だったか矢部史郎さんがインタビューされていた本があって、そこで矢部さんが、変なエコロジストが割り箸を使わないでMy箸を使おう、みたいなことを言っていると、大量の割り箸を叩き割ったりした、という意味のことを言っていたのですが、noizさんが書いていたまやラミスさんと矢部さんの、お香を巡る擦れ違いも、そういうことだったのかな、とか思いました。
いま、まやラミスさんがやっていたFEEDってロックバンドの音楽聴いてますが、私にロックを批評する資格はないけれども、それなりに良いようにも思いました。
園くんが紹介していた、ダグラス・ラミスとまやラミスのイヴェントも、ナマケモノ倶楽部主催だったけど、確かに彼女はスローでピースな流れの象徴的存在だった(今も?)かもしれません。
-
北条うらら
まず確認したいのが、まやラミスと矢部史郎は上司―部下の関係にでもあったのでしょうか?まやラミスが命令を下す侵略者でも支配者でもないのであれば、日帝―台湾原住民の例えは不適当です。日本の世間論でも十分理解できる話なのに、なぜ大袈裟な権力を欲するのでしょうか?
「迷惑をかけない」ということが全体主義的な抑圧に変わるということはよく指摘される点ですし、自己責任論の蔓延につながる重要な課題と思っています。
一方で、粗暴な表出はマッチョで攻撃的で排他性を含みます。力関係によっては、場に対して一気に抑圧的な行動になるし、まさに抑圧的に機能する場面に何度も遭遇しています。「おっちょこちょい」と無邪気に表現することは、そういう部分を隠蔽することにつながりまし、そういう部分が「ヒロイック」と感じるのです。粗暴な表出は英雄登場と相性が良いと思います。
「迷惑」はお互い様の話ですけど、マッチョで攻撃的で排他的な表出については自己点検をお願いします。
-
noiz
なんか言い訳めいていて、自分でも気が滅入ってきますが、もうしばらくおつきあいください(苦笑)。
ご指摘のとおり、支配関係はもちろんありません。だからアナロジーが不適当とおっしゃいますけど、ここでは相手を「子供扱いする」一方の振る舞い方についていっています。その場をいったりきたりしていた人間に対し、お香を手わたして「落ち着いて」いいはなつ行為の傲慢さについていっているのです。場の「主人」のごとき態度がなぜとれるのかと問題にしている。
手わたされたものを投げ捨てる行為(とその暗黙の支持)は、〈大人─子供〉の関係性を他者にもちかけることの拒絶としてであって、北条さんのいう「マッチョで攻撃的で排他性を含む」ものとしてあったでしょうか。かりに攻撃的だったとしても、それは反撃でしなかいわけですよ。そしてむしろ排他性の表出は、このばあいお香を手渡して託宣をのべる行為のほうに存在した。
>力関係によっては、場に対して一気に抑圧的な行動になるし、まさに抑圧的に機能する場面に何度も遭遇しています。
一般論としてはそのとおりでしょう。しかし粗暴な行為がすべてそのとおりかといえば、そうじゃない。まさに「力関係によっては」です。繰り返しますが、おしつけられようとする関係性が不当だと思えばこその、拒絶の意志を示すひとつの方法としての「投げ捨て」です。
具体的な話に戻せば、わたしたちは場を簒奪したのではありません。アメリカ大使館前付近にはあとからやってきたけれども、ずっとその場を占有して他の人たちを追い出したわけでもない。むしろその場では少数であったし、また多数派になろうと策動したわけでもない。もちろん大使館職員にいいたいことはいえますよと、問われたことに答えるかたちで呼びかけはしましたが、「マッチョで攻撃的」な作法に人々を追い込んだわけでもないのです。そのつもりもない。そもそも大使館職員に文書を手交するなどの行為は、一定の平静さのうちに行うものですしね。
だからなにも「場を支配」しようとしながらそのことを隠蔽するために、「おっちょこちょい」などと自らを評言したのではありません。警察のいいなりになるかたちで場の平静さをつくりだし、そしてそれを保とうとする「空気」を一切読まずにあとから行く(そこは誰の占有空間でもないから)、つまり諍いの空気を新たに持ち込む可能性がありながらもしたいようにする、いわば「軽率さ」をそのように評しただけです。
また、警察の街頭行動の規制に対して抗議したり、行動現場でのふるまい方についての(広い意味での「仲間うち」の)規制を拒否する態度に現れた自分たち自身のありようを「粗暴」としましたが、るる注釈してきたようにそれは「マッチョで攻撃的で排他的な表出」とはずれています。北条さんは「粗暴な表出はマッチョで攻撃的で排他性を含みます」と抽象的に定義されていますが、わたしが記した具体的な場においては、そもそも初発の「暴力」的な行為が誰のものだったのかは明白でしょう。(ここでいう「暴力」とは物理的なそれではありません、ねんのため)
-
noiz
一通りまとめて読み直したんだけど、ループしてる >_<
-
-
noiz
そっか、台湾では reclaim the streets のことを「收復街道」というんだね。收復街道聯盟加油!
-
RTSTW
thank you!! ^____^
-
-
noiz
この短いテキストのなかにさえ事実誤認が二つも含まれている。自家撞着となるが経験談めかしたお話こそ疑ってかかれといわざるをえない。
・東京ではデモ「申請」は警視庁ではなく東京都公安委員会にするもの(条例読め)
・デモは基本的に右折できる(自粛すんな)間違った情報をたれながして後続の妨害をしないでもらいたい。妨害の意図がないのなら、誤った認識を訂正して情報を撤回すべき。できないと思って自粛するからできないだけ。右折も左折もバンバンやりゃいいだけ。右折の実績は過去にいくらでもあるから、もう少し先達の経験にも注意を払うべきだ(ただし先行者の経験を絶対視してはならない)。
それに警視庁がでばってくるのはデモコースが複数管轄にまたがる場合だったり(タテワリ警察の都合で異なる署を「本部」=警視庁が調整する必要があるため)、公安警察が目をつけてるようなグループが主催してる場合ってだけのことなんだけど、そこで警視庁にやられっぱなしでいるから、公安委員会への「申請」を妨害されているにもかかわらず、こともあろうに「警視庁と交渉している=申請している」などと勘違いしてしまう。複数管轄にまたがるコースであっても、警視庁にわざわざ出かけなくても出発地の管轄署で「申請」書を出すことは可能(というか管轄署を経由させなければ公安委員会は受け取らないカラクリになっている)。警察はそうされたら受け取るしかないんだから。
警察にだまされているせいで、自分たちの行動が最初から縮減されたものになってしまっているのだと自覚するところからはじめるべきじゃないのか、ここまで来ると。思い込みのでっちあげ経験知に頼らず、まずきちんと条文を読んだらいかが。
-
noiz
うーむ。経験知が役に立たないこともあるので、その継承と検証は断続的にでも意図して行わないと、徐々にではあれ腐っていく。やはりつねに「継承しつつも更新していく」ことが大切だと思うのです。だから正解はない、とこうなる。固着こそがダメなのだというわけです(ただし局面によっては強固な党派性が必要なときもあると考えます)。
ここんとこ人様の苦労にタダノリしてデモの話ばかり勝手にしていましたが、それにしても同じことで、「警察にダメてっていわれたらダメ」なんてその最たるもの。それはたとえ遵法主義であっても実践の追及でいくらでも「のりこえ」可能な神話なわけです。ことはデモに限りません。学習、調査、会議、集会、そのた地道な活動すべてにいえる。神話の追経験をすべてだと思い込む「自己組織化」のありようは、じつは「社会運動」にとって阻害にしかならない。もちろん否定的媒介となる意味においては、そうした場合にも経験知もまた活かされるわけですが。でもだからといって過去の経験を自らに関係ないものとして軽やかにとびこえていこうとする態度も、信用できない。わたしはこのあいだを右往左往する……。
今日仕事サボりまくり 笑
-
noiz
あーそれとね。「路上解放」をいうデモ(元ネタは Reclaim the Streets!)は目的でもあり手段でもある、といった局面がありえました。
もともと Reclaim… はイングランドにおけるモータリゼーション批判、グローバル資本主義批判の運動からでてきたもので(つまりロードプロテストの運動と関連している)、社会的批判を公共空間にぶちこむためにデモをするし、また治安弾圧でがんじがらめにされている街路を瞬間的にでも取り返そうとしてデモっていた。デモというか街路占拠なんですけどね。主張の訴求という目的と、行為による獲得という目的。後者は公共空間を一時的にでも占拠する目的があり、つまりデモることそのものが目的となりうる。手段と目的の関係が複線化しているわけです。
それは日本でも当初(「理念の輸入」と日本的制約のもとでの「土着化」の過程)はそうだった。今はもう、トラックに機材つんで音楽たれながしてデモるなんて「様式」に純化してるところもあるんじゃないかな、と思いますが。
-
RTSTW
Is there any “Reclaim the Streets” activities in Japan? Please show photo and video on this blog.
p.s. Our Wheelchair users Reclaim the Streets in Jul,2010:
http://rtstw.blogspot.com/2010/07/blog-post.html
Cyclist Reclaim the Car-Parking space in Dec,2007
http://rtstw.pixnet.net/blog/post/12478683
Cyclist Reclaim the Streets–automoving bike way(Oct,2007)
http://rtstw.pixnet.net/blog/post/10218914 -
noiz
Hi RTSTW, here’s some photo on other site. In Japan, demonstration like “Reclaim the Streets!” started as anti-war demonstration from 2003 in Tokyo, Osaka and Kyoto. But some “peace parades” went ahead around Dec. 2001 with sound car (truck).
J19 2003 Tky
On that day, the demonstration was attacked by security and riot police, so 2 demonstrators was arrested. But the arresteds weren’t prosecuted and released from police cells after long day detention…
http://mkimpo.com/diary/2003/rave_03-07-19.htmlO5 2003 Tky
Counter demonstration against police-state suppression on autonomous anti-war protesters.
http://mkimpo.com/diary/2003/rave_03-10-05.html
http://www.youtube.com/watch?v=EAxaurrobQc
http://www.youtube.com/watch?v=MkuC_JwSVQ8Other old years photo:
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/6856/ravedemo.htmNowadays, several demonstrators and groups also have kept/adopted “sound-demo” meaning “demonstration with music” in English. Maybe “Reclaim the Streets!” in Japan have been Japanized onto “sound-demo”. I think that the tension to reclaim the streets in early years was lost, but the demonstrators have kept the practices of doing actions on the streets and it’s the succession of early years spirits. But the brutal police have set the intervening method the demonstrations up!
D1 2007 Tky
Some bands played on truck at anti-war demonstration.
http://www.youtube.com/watch?v=mor8rechdRwJ5 2008 Sapporo
Police attacked sound car and arrested the driver at anti-G8 demonstration.
http://www.youtube.com/watch?v=AxuEsnra9Bketc etc etc…
-
RTSTW
noiz, thanks for sharing~ I like your activities, especially “J5 2008 Sapporo” which was an anti-G8 demonstration.
-
RTSTW
Original nature is full of violence. We human beings shall fight for “PEACE”. People who fight for faith and didn’t afraid to be arrested by police are brave. Life is short , time is precious. Make love , not war.
-
-
noiz
デモは手段でもあり目的でもありうる
それをいうなら「デモをやるという目的のためには打ち出しはわりとテキトー(でもスローガンの「キャッチー」さについては考えている)」じゃないの。そもそもアナがどうとかって関係ないし、もう5年も前の話なのに流動する人々を固定しようとする徒労のラベリングに意味があるのかどうか。だいたい全員がそろって「われらアナキスト」みたいな強固な主体をうちかためたデモ組織者なんか幸か不幸かいまやこの日本じゃほとんど存在しない(まったくないとはいわんけどほとんど知られちゃいないし、「黙って非公然」についてはここでははしょります)。
で、デモはあくまで「なにかを訴求する」ための一手段だと思っているからそういう解釈にしかならないんでしょうが、デモをデモとして追及する(つまりデモを敢行することそのものが目的となるような実践)スタンスはがんじがらめの警察国家のもとではありうること。つまり「街路を奪い返すぞ」ということがほんとうに課題になってしまうわけです。ひところ打ち出された「路上解放」のスローガンについてなにを大げさな、あるいは転倒してるじゃんと思えるなら、それはたんに警察の街頭支配のありようを知らないからこそのもの。あるいは支配に屈服しててそれでよしとしているから。そーいう大方の状況は今もそう変わっちゃいないと思います。
かつて東京でイラク反戦運動なるものが「ピース」でうめつくされようとしたときに、一部のサウンドデモがそこからはみ出していくかたちで現れたのは、「え、なんで日本ってこんなに警察に支配されてんの? それにみんな屈服してるし……「(警察と)争い」を起こすほうが悪いみたいにいわれるんじゃ、勝手にやってるほうがいいよなぁ」という「実感」にもとづいていました。大同団結より、ひとつの突破をめざしたわけです。のれないところにはのれない。フリーライダーになるつもりもない。なら自分たちでやる。まるで神話のように語る手合いもいますが、サウンドデモといってもたかだかそんなもんだったわけです。
そういや、あのころ松本くんたちは「貧乏人大反乱集団」(パロディ的学生組織としての全貧連が機能しなくなりつつあったころの学外でのかれらの自称)として街頭に押し出してて、わたしらとはやや違うところで頑張ってたんですけど、やっぱり「ピース」な人々に嫌われていて、あまりに警察と衝突するので(でもわりと間合い読んでやってたはずなんですが)あるときたまたま共同行動で同舟せざるをえなかった Chance! の人らにボロクソにいわれたってなことがありました。もちろん「貧乏」はそのころから独自の活動への指向を示していたわけですけどね(大学内でやっていたことを街頭に持ち出した「駅前鍋」とかがそうで、のちのチャリデモとか家賃をただにしろデモとかはその転化とみていい)。「貧乏」の作風は他人のことはどこ吹く風なんで、口先だけをみるとどっちが「ピース」なんだか、という。
ああ、話がそれた。でまあ、素人の乱の松本くんは「アナ」を意識しているのは確かなことなので、その主体的な意識をもって「アナ系」(それにしても「系」って便利なものいいだよな~)といえるのかもしれないけど、高円寺ニート組合(チャリデモでの自称)を「アナ系」というのがふさわしいかどうか。「アナ」と決めつけられるのだっていやな人は多いはず。いまや松本くんのこの数年来の盟友である「乱」の各店主たちは自称「アナ」ですらないのは、みなさんよくご存知のとおり。え、知らない? じゃあ決めつけてんなよ。
-
Linda
>Chance! の人らにボロクソにいわれたってなことがありました。
Chance! の人らの人間性を疑いますね。WPN実行委も酷い。 -
noiz
まあいわれた方がたぶんどこ吹く風だし、罵言まるだしで喧嘩したっていいんじゃない?とも思うんだけどね。Chance!に違和感を感じたのは口先では「ピース」とかいいながら口悪いなおめーら(笑)というくらいのもんであって。かりに言われたのがオレだったら逆宣伝に使うところだけどね。腹黒いから。
WPNに関しては、こっちも当初は喧嘩腰で交通の機会をせばめたかな、という反省もあるんです(個人的に)。とはいえ、もちろん自分らが呼びかけた「ピースウォーク」の一部隊列(主催にとってあくまでよそ者)に被弾圧者をだしたってことに口を噤む態度は論外だと今でも考えるわけなんですが。
ただ、プラットフォーム拡大を最優先にすりゃ「共約」の範囲がゆるゆるになるのは当然だし、またそのゆるさにあきたらない人々との軋轢をうみだしてかえってギスギスする、だなんてこたー共同行動を「主催」する立場になりゃよく分かることながら、おうおうにして「敷居を下げるか」「指向を貫徹するか」の二者択一にはまりこむしかないのだけど、そうした二元論ではまるでがんじがらめになる現実の罠が待ちかまえている。……まるで凡庸な話ですまんことです(笑)。
-
-
noiz
電子書籍をめぐる一連の発言になるほどと思わされる前田年昭さんの、「アメリカ発電子書籍ブームに胡散臭さを私が感じるのは,歴史的視座を欠いたまま,“新しい歴史,いまここから”とでも言わんばかりの物言いゆえだ」という指摘に、はっと思うことあり。
以下は我田引水で前田さんには申しわけありませんが、アメリカの一部アナキスト(いわゆる「新しいアナーキスト」の知識人)たちの議論の提起のしかたって、まさに歴史を切断するプレゼンだったりするんですよね。意地悪ないいかたとすると、それはたんに自己販促活動でしかない。たとえば「新しいアナーキスト」の代表的論客と目されているデヴィッド・グレーバーにしても、つねにまともな議論をしていると思ったら大間違いです。『VOL』誌のインタヴューで語った「ブラックブロックは非暴力的」という主旨の発言ははっきりいって歴史の切断どころか捏造ですらある、といったあんばい。またグレーバーが「新しいアナーキストたち」(『現代思想』2004年5月号所収、英語原版は The new anarchists, New Left Review No.13)で語った、「小文字のアナーキスト」(=「新しいアナーキスト」)と「大文字のアナーキスト」(=「セクト主義者的アナーキスト」)の対比のさせかたにも詐術があって、「新しいアナーキスト」の表象としてグレーバーがとりあげるブラックブロックのなかにさえ、「大文字のアナーキスト」(もしくは「新しくない=古いアナーキスト」)は存在してきました。これは北米出身のアナキストの活動者に確認したことですが、グレーバーが「新しいアナーキストたち」で参照している反FTAA闘争においても、かれが sectarian Anarchist と描出した NEFAC(北東アナキスト・コミュニスト連盟)に結集する諸グループの活動者がブロックないしCLAC(反資本主義者結集)のなかに(個々に)合流していたという現実は、グレーバーの議論が自らの立論に都合よく「現場」を素材として利用し、実態を無視したものであることを示しています。で、なんでこんなことするかと考えるに、たとえ無自覚にであるにせよ、他をおとしめて自分をおしあげようとする魂胆があるからなんじゃないの…という疑念があたまをもたげてくるわけです。大学教員のいうことだからとありがたがってもはてはやす知識人指向の諸君、自己点検しましょう。
cf.
セクタリアンと決めつけられてぶちきれたNEFACのウェイン・プライスの議論
★Fragments of a Reformist Anarchism
★The Two Main Trends in Anarchism※グレーバーを改良主義者とラベリングするプライスの態度はたしかにセクト主義的ですが、先にきめつけたのはグレーバーだ、という背景を理解しないとこうした激しい批判が出てきた意味をつかみそこねるでしょう。
-
攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. "Linda"
「大学教員のいうことだからとありがたがってもはてはやす知識人指向の諸君、自己点検しましょう。」はい。ところで、今読み終えたのですが、noizさんが指摘されているような大学人としての限界もありつつかなり面白いと感じました。歴史の捏造は良くないけれどもね。ああ、私もまた、あなたがたのアナーキスト「類縁グループ」に復帰したいです。でも、自分ブログにも書いたけれど都内まで出る交通費がないんですよね…。それより根本的に思想が反動的ではないかという批判もありそうですが(笑)。
-
-
noiz
4日にまた新宿でデモとのこと。今回は緊急実と辺野古実の共催なんだとか。
-
noiz
場の剽窃、もしくは恣意的活用は、ただてめえ(ら)に居心地のよいナワバリづくりのために行われる
人間は基本的に醜悪なのだということ、これは人それぞれが認識すべきもので、分かち合うことなんかできるわけがないと思っている。クソヤロウがヤロウとしてダメなのだということはヤロウ自身で把握すべきであり、クソアマがアマとしてというのも同様だ。結果として「気付く」契機につながるものとして、具体的な問題で糾弾されるのはいい。
しかし「こうすればいい」「こうとらえればよい」と一方的にコンセプトを講釈されて分かったつもりになって、なおかつチューターに征服されているようでは、まるでダメ。なぜか。簡単なこった。机上のお勉強でえられたものは決して血肉化しないからだ。そもそも手抜きの啓発セミナーってのは「認め合い」、つまりなれ合いだけが残って、厳しい相互批判は絶対に行われない。そもそも居心地が悪くなるようなまっとうな批判が回避されることが美しい場であるかのように騙られる昨今、喧嘩抜きのワークショップはただひたすらに気持ちの悪いセミナーにしかならない。なぜまともな相互点検をしないのか。できないのか。これも簡単なことだ。自分に都合の悪い切開はしたくないからだ。
各自に都合がいいだけのもたれあい。そこに見るべきものは何もない。ただひたすら退嬰だけがある。そうした場では無責任でなあなあの「無決定の決定」が支配法則となる。端的にいって、責任の欠落をとがめることができない泥沼をうみだすのである。
それだからこそ、部分ハウスキーパーオルグのクソヤロウ問題とかのダメすぎな自己の行為を対象化できずに、えらっそーな呼びかけをたれながすことができるわけだ。だいたいテメエのふるまいを相対化できてないんじゃ、いくらお勉強してもムダなだけ。それに付和雷同してる政治屋どもは、もっとタチが悪い。
他者を傷つけず、自分が楽になるためにだぁ? ざけんじゃねえぞ。セイファースペースの理論は、てめえだけが気持ちよくなるためにあるんじゃねえ。場にかかわる全員が「ベター」を選択できるための考究の材料として、あれこれの経験則が追究されてきたんだろ。そんな基本的なこともふまえられないで、なーにが「ジェンダー」だコラ。
てめえらに都合よくつまみぐいしているから、結局そこには(ヘテロの)男と女しか存在する余地がない。てめえらの頭のなかにはてめえと連れのことしかない。だから男・女ばかりの世界が排出される。世界は両性だけなどというていたらくで説教の場をつくるとは、図々しいにもほどがある。
-
noiz
芝公園23号地にて
ヤボ用がはねたあと、ただデモ(朝鮮学校差別を許さない!「高校無償化」即時適用を求める市民行動)に参加するつもりで芝公園に行ったら某氏に見つかって腕章をわたされました。「荷物あるんですけど…」「宣伝車両に預けて」「へい」と、そのままデモに。湿度が高くうだるような暑さだったけれど、生徒たちのシュプレヒコールはそれにまさる熱気がありました。銀座をぬけた先に、日の丸をかかげ罵声をあびせる一団あるも、デモ隊は負けずにシュプレヒコールをくりかえして整然と行動を貫徹。主催者発表でデモ参加者は1200人といっていたと思います(もう記憶があいまい)。ていだんをいくつかにわけていたくらいですから、たしかにそれくらい集まっていたかなという感想。
-
noiz
蛇蝎
なんでそこでおれの名前だけ出てくるのかサッパリ分からん(笑)。嫌うもなにも、警備公安を職務とする警官にメシおごられて点検もなんもないんだったら、怖くて近くには行けないなって判断しただけのこと。あんときのWPNって結局ぜんぶうちわですまして外には対応を開かなかったから、ぶっちゃけ判断のしようもない。まあWPNの実行委にしてみりゃ、「うちわの事情」をなんでただ行動に参加するだけで外部にいるやつらに開放しなきゃいけねんだよってところだったんだろうけど。(でもこちとら推薦制の実行委への参加資格なんかもってなかったら、外にいるしかなかった)
ともあれ、外部で騒ぎはしたものの特別に感情をさしはさんだりしてない。坊主懺悔じゃ総括にならんと騒ぐだけ騒いで距離とってたから、嫌われたと受け取ったのかもしれないけど、結果として大丈夫だと保障できるものがないから距離をとるってのは単に防衛上の措置。あんときの状況として、弾圧が「こちら」(ってなんだ)に集中してたってのがあったから慎重さを期したわけ。
そもそも「蛇蝎のごとく嫌う」ほど近くにいなかった。喧嘩上等(違うか)のノンセクト残党+有象無象とピースウォーク派のCHANCE!は、もともと場をともにしてなかった。接点なりがあったとすれば、WPNという共同行動のわくで個々の隊列をどうするかってとこで色々と悶着があった、その場。そのことにしても、デモで規制されたからこいつキライというのはないな。現場で行き違ったまま衝突したりすると、その場でお互いカッとなったりするもんだし、実際当時いろんなことでムカついてたけど、ちょっと時間たちゃ感情のほうはどってことない。「言うこと聞かない奴ら」として、ピースウォークの大勢から分岐してしでかした渋谷の反戦サウンドデモでだって、行動現場にWPN関係の人やピース派の人たちがきても邪険にするわけじゃなく(ただ行きがかり上、どうしても気に食わなくてハネた人もいたけどね)、ようするに来るもの拒まずでやってた。現場で他者と衝突するなんて経験をすれば、むしろ共同行動のありかた(行動の組織化)についてどうしたもんかなという課題意識こそずっと残る。
で、ちゃんと「会食問題」で「こちら」(ってなんだろ、少なくともWPNの「外部」だね)と話しあうことをしたのってサミヲさんだけだった。だいたいイヤなことあるとみんな沈黙してやりすごすか、逃げるじゃん。だからむしろ有象無象のわけわからん連中のとこに来て話をしようとしたことについちゃ、好感もってるくらい。なにがどうだったのかをオープンにできなかったことが悔やまれるけどね。…それももう何年もまえのことか。
攝津正 19:36 01/10/2010 パーマリンク
まあ、でも、経営学から学ぶのもよいのでは。関係するかわかりませんが、最近ブログに、資本主義の肯定面と否定面を書きました。簡単にいえば資本主義が消費者の多様な欲望を開発し充足させるのですが、消費者は移り気なので、欲望もころころ変わり、生産現場はそれに振り回されるということです。ナタデココ然り、韓流ブーム然り。
noiz 21:10 01/10/2010 パーマリンク
そうね。もう一つのメモで、資本主義に学ぶことは多いと書きましたが、組織論なんて経営のものだろうがそれ以外であろうが問題の根っこは同様かと思ったり。目的が違うだけで方法論が似ているというか…
noiz 00:54 02/10/2010 パーマリンク
ようするに、「うまく(効率よく)やる」「能力をひきだす」などのくみたてが問題にされるわけです。なんに活かすのかが異なるのだろうけど、くみたてがどうあるべきかと問題にされる範疇がまるで一緒だ……という。「へたをうつ」「能力がたりない」上等、などとは空念仏でしかいえない。いやま、現実の「運動」ってほとんどせっぱつまってて余裕がないことが多いから、ヘタレ上等ではものごとをくみたてられないという陥穽にはじめからはまりこんでいたりするので、ますます「うまくやる」ことが重要になってきちゃうのだけれど。つづくかも